近代日本の右翼思想

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)


内容説明
ごく少数の異端者を除き皆が右翼だった時代北一輝から簑田胸喜まで、そして西田幾多郎から長谷川如是閑まで。大正・昭和前期の思想の系譜をたどり、総無責任化、無思想化へ向かう近代日本思想の極北を描く

ずいぶんと積みっぱなしになっていたので、いい加減読まなくてはと思って読んだ、章題ごとが内容を把握しやすくて、各章ごとのつなげかたも上手い、だけど理論のところがさっぱり理解ができんので辛い。どうも、まだ読むのには早かったかな。政治思想についての易しい本を何冊か読んでから、もう一回読んでみることにしよう。いつも、こういうことに気づくのは読み終えた後になってだ……。再読するときには、章毎に内容をなるたく簡潔に(あとで自分がみて内容を思い出せる程度には)まとめられるように努力したいとは思うのだが。ある程度政治思想の易しい本を何冊か読んだあとに、読む気力がなかったらせめて、各章ごとの最後の節だけでも簡潔にまとまっているから、そこだけでも読み直すようにするようにしよう。

左翼、過去現在に実現したことのないものを理想とし、それが実現できたら現在よりも格段によくなるという未来の理想図に賭ける、現在を変革しようとする勢力。
右翼、過去の事実やイメージに立脚して現在を変革しようとする勢力。
保守、現在を大事にして漸進主義(止まっている現在はないので)をとる。中道(中道を保守より未来によるのが少しはやいというニュアンスで使う人もいるが)と似たようなもの。

日本近代における右翼が、失われているもの失われつつあるものを持ち出す時の過去の担い手として天皇を想定したため、『「好ましからざる現在」の代表者である天皇が「好ましい過去」の代表者でもあるという、現在と過去が癒着した迷宮に必ず迷い込み、失われた過去と現在ありのままとがまぜこぜになり、分かちがたくなってしまう。それが日本近代の右翼思想の姿だったと思う。』(P11)ああ、それで保守と右翼が混同して語られるのか、ようやくわかった。保守と右翼の違いは、違うとは知るっていてもどう違うのかわかっていなかったのでこの本でようやくわかったよ。天皇と関係ない過去を持ってくる右翼は理論的にはあっても、実際には登場しなかった。

近代の右翼は、現在を嫌い過去に惹かれ、過去に天皇を見出し、その天皇がいる現在が悪いはずがないと思い直し、ついに天皇が現在している現在が常に素晴らしいとして、現在を絶対化して、常識的な漸進主義すら現在を改変するものとして否定して、思考停止状態になるという道筋がうかがえて、保守中道の現在重視とも異質のものに。

北、神秘家、オカルティストとしての側面は知らなかったので、そうだったのかと(北さんについての本を読んだことないが、右翼の理論家と言うイメージが強かったので)。

『原理日本』、左翼も自由主義者も穏健保守も右翼(北、大川、安岡など)も攻撃って、全方位すぎて笑う。

最後の章の『右翼と身体』はかなり平易な内容だなあ。というか、夢野久作の『ドグラ・マグラ』についても言及されるとは思わなかったよ。というか、この小説も何年も読みたいと思っているけど結局読めていないなあ。
『アンポンタン・ポカン君の希求する世界は、ファシズムと相性がいいと言うことができる。個人を離れ、直接に繋がり、我を忘れて喜ぶ。そうした状態の永続化こそがファシズムの理想だからである。』(P196)例えば、エヴァとかのラストとかもそういえんのかな。とこの文章を読んでそんな感想を覚えた。どこかのブログでエヴァのラストと「特性のない男」のそういった点が似てるといったことを書いていたようなのを見たような記憶があるが、「特性のない男」はwikiを見るとナチスファシズムのちょっと前に出版したということもあって、そういったところは先見的だったのかなあと思ってみたり。

このブログの記事に書いたよりも、本の色々なところをチェックしていたが、きっと僕はあとで自分で、そこの内容を見て引用かそこの内容を繋ぎ合わせてようやくなり何なりできればいいな、と思っていたのだろうが、読んだ直後でも茫漠とした印象しかなかったのに、読んでから感想を書くまでに半月以上間が空いてしまってはどこの文章に眼目をおいてページ数をチェックしていたのかすら判然としないありさまだ。