ギリシア・ローマ名言集

ギリシア・ローマ名言集 (岩波文庫)

ギリシア・ローマ名言集 (岩波文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
カエサルが「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡ったというのは有名だが、彼は実はこう言ったのだという―「賽を投げろ」。ギリシア・ローマの名句から三三七句を選び、編者が自在に語る。見出しでさがして拾い読みしても、通読しても楽しめる一冊。

横書き。「アナバシス」の「海だ、海だ。」という語ものっているが、読みたいと思っているけど読めてないから、はよ読まなくてはな、興味がわいてから時間が立つごとに読む確立が減っていくのが自分でもわかるから。ギリシア人の傭兵が、王位簒奪を狙うペルシアの王弟に雇われたが、最初の会戦で雇い主(王弟)が討ち死にして、ペルシアから逃げ帰ってくる行程を書いた作品、本当に真実は小説より奇なりって感じのエピソードだよな、実際にあったことでなかったら、兵士達が逃げ帰るという状況を作るために作者が背景としてあつらえたものという風に考えても不思議でないような話だから。

ギリシアの部

『人間にとっては、生まれぬこと、太陽の光を見ぬこそよけれ。』(パッキュリデス『祝勝歌』P12)生まれなかったら人間じゃないんじゃ、というのは置いといて、こういう句はあいかわらず好きだなあ、一時期はこういう言葉に対して心底から納得し共感できたが、今はそこまで精神的に落ちていないが、こうして書き抜く程度には、こうした言葉に対する嗜好性は失われていない。
『神々の愛するものは若くして死ぬ』(メナンドロス『二度だまし』P21)元々は若死にしたことを惜しむ句ではなく、老人に対するからかいの言葉だったよう。
『大胆な指揮官より用心深い指揮官』(エウリピデスフェニキアの女たち』P39)小説などの創作物では、「拙速は遅行より勝る」(よく聞くのに改めて書き出すとなるといまいち自信ない)というようなフレーズばかり目にするので、こういう反対のもあるというのは、ずっと忘れていたよ。
『始めは全体の半分。』(ことわざP61)小説とかやる夫スレでも、序盤でエタっているものでも、それがよければ、いい。というか楽しめるから、そういうのを念頭に置くと、始められれば半分が全体の半分が既に完了しているというのは納得がいく。

ローマの部
『まだ愛したことがない人も、あすは愛しますよう。
 愛したことがある人も、あすは愛しますよう。』(読み人知らず『ウェヌスの宵宮』P81)後半はちょい蛇足気味(前半のみの方が歯切れが簡潔でいいよう)な気がするが、前半の「まだ〜」はすごく綺麗で好きだ!
『努めて簡潔さを求めると、曖昧になる。』(ホラティウス『詩論』P99)簡潔に書いているつもりなんだろうけど、そのせいでかえって分かりづらくなるというのは結構あるよね。冗長でも分かる文というものの重要性が最近になってようやくわかった。というか、元々冗長でも分かりやすい文の方が好みなんだが、どうも簡潔さに関する文章をネットでよく見かけるから、簡潔さを過大に重要視していた、とこの台詞をみて気がついた。
『技術が自分の技巧によってすっかりかくされている』(オウィディウス『変身物語』P102)ピュグマリオン象牙の女の像、という過去の話、「図解雑学 ギリシア神話」に出てきたからギリシア生まれの話かと思っていたが、この小説(?)ができたのはローマにおいてなのね。異世界転移のチート系で、自分の作ったキャラに惚れたりする主人公って結構いるけど、それもこんな感じなのかな。
『健全な精神が健全な身体に宿りますようにと祈るべきである。』(ユウェナリス『風刺歌』P111)元の言葉。「健全な精神は健全な身体に宿る」というのになったのは近代から。そうした祈り(願望)の言葉を、事実のように扱う言葉のように改変された近代にできたほうの言葉は、体の弱い人とかそのほか様々な先天的な事情のある人のことをまるで考慮していない無神経な言葉になってしまっているので、すっごく嫌い。
『山々が陣痛を起こして、あほな鼠が生まれるんだろう。』(ホラティウス「詩論」P136)「大山鳴動して鼠一匹」の原文。ローマのことばの訳だとはしらなかった、漢文調なので中国の言葉かとばかり思っていたわ。