翻訳家の仕事

翻訳家の仕事 (岩波新書)

翻訳家の仕事 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
原文にトコトンつきあい、テクストに響く原作者の声に耳を澄ましては、たった一文字の訳にも七転八倒―。古今東西さまざまな言語の翻訳にたずさわる当代きっての名訳者三七人が明らかにする、苦悩と、苦心と、よろこびのとき。翻訳という営みに関心をもつすべての読者に贈る、読みどころ満載の翻訳エッセイの決定版。

 翻訳に関するエッセイのアンソロジー、というか連載をまとめたもののようで、様々な翻訳家(日本の古典を現代語訳した人も含む)が翻訳についてのエッセイを1つずつ(複数書いている人はいない)書いている。
 『名作と呼ばれる長編小説でも、それを読みはじめたばかりの段階では、必ずしも取っ付きがよいとは限らない。しかし何とか我慢しながら数十ページも読みすすめると、不意に眼前の視界がぱっと開けるように、読書速度が次第に速くなり』(P10)プロの翻訳家のような人でも、最初は読みづらいとかそういう感触はあるのだと安心した。けど、たった数十ページで「眼前の視界がぱっと開けるように」という風になるのは流石だなとも思う。個人的には長編の文学とかは半分くらいいくまでたいていしんどいまま読み進めることが多いので(といっても、最近は長編の文学なんて読んでいないけど)。
 『「原文に忠実な、厳密で正確な訳」とされているものが、しばしば正確でも何でもなく、誤解を招くものや意味不明なものになっている』(P33)そりゃ、そのまま訳しても、当時の時代背景やその国固有の言い回し、同国人(やその国に詳しい人)にしか伝わらないニュアンスもあるだろうし、そうした「原文に忠実な、厳密で正確な訳とされているもの」というのは原文で読める人のためのもので、何も知らない読者が読む翻訳としては……、というイメージなんだが、実際のところはどうなんだろう。
 ヤマタノヲロチ、最初は遠呂知(ヲロチ)と表現されるが、『スサノヲがヲロチを殺す場面になって、(中略)原文では初めて、「蛇」という漢字を用いて、遠呂知(オロチ)がじつは蛇であったことを明かす仕掛けになっているのである。』(P71)明かされる前は、ヲロチという正体不明の化け物でなければ緊迫した恐怖を語れない。それが、実は蛇だという種明かしを効果的にする。というのは、そのことを(恐らく)はじめて知ったので、読んでいてすごく感心した。
 『直訳すれば、”(観光客たちは)彼らの人生の貴重な一分間、協会の偉大なフラスコ我を照らすのに必要な代金を支払うべく、暗闇の中で二〇〇リラ硬貨を取り出そうとする”』(P122)この文章を見て、須賀さんのエッセイで、こうした絵を見るための照明装置が描かれているのを見たのを想起した。たしか、須賀さんが見ているときに、学校の先生が引率で子供たちをつれてやってきて、吝嗇して金を払わずにその絵の解説やらを子供たちにして、その間須賀さんが払い続けて、その先生と生徒達がそこから移動するときにその中の子供の一人から「ありがとう」と言われて、その言葉がうれしかった。という感じのエピソードだったように思う(うろおぼえだから正確ではないだろうが)。
 松永美穂という翻訳者の、ある作者とのエピソードが描かれているエッセイは面白い。こうした、翻訳者と作者のエピソードってなんか好きだわあ。
 犬が飼い主より自分の方がえらいと思うのは、アルファ症候群というのか。いや、特にそこから話題を広げることはできないが、あるエッセイ内でその言葉が書かれているところがあって、そうした犬の心情にもそうした名前がついているんだなあ、ということになぜか感心してした、というかその症状(?)は知っていてもそうした名前があるなんて思っても見なかったものだからそう思っただけかも。