イタリアンばなな

イタリアンばなな (生活人新書)

イタリアンばなな (生活人新書)

出版社からのコメント
イタリアにおける「ばなな現象」の謎に迫る よしもとばななの小説『キッチン』は、1991年にイタリアで翻訳が出版されると同時に空前のベストセラーとなり、社会現象まで引き起こした。「かつてない新しい感性」「イタリア人の日本観をぬりかえた画期的な作品」と絶賛される一方、「日本のマンガ文化が活字になっただけ」という批判もとびだし、物議をかもした。現在までに11作品が翻訳され、合計250万部が売れている。
 このイタリアでの「ばなな現象」をめぐり、当の作家とばなな作品の翻訳家、仕事を超えた友情でむすばれた二人が、それぞれの視点で語った。
 世界中の若者の心を捉えるよしもとばななの魅力とは何なのか。本書では、日本-イタリアの若者文化を縦糸に、翻訳という異文化理解の手段を横糸にして、「家族」「食」「身体」をキーワードに解き明かしてゆく。
 本書は発売と同時に新聞、ラジオでも話題となり、よしもと作品の再評価につながっている。よしもとばななファン必読の一冊。


 一部はよしもとばなな(以下敬称略、というか、敬称をつけると全部ひらがなであるせいか、違和感がものすごい。普段は外国の作家とか文豪と仰ぎ見られている過去の日本の作家でないかぎり概ね「さん」づけしている〈突発的に、「さん」づけは馴れ馴れしいのでは、と思ってやめて、また呼び捨ては失礼じゃと思って再び「さん」づけに戻してを繰り返しているがw〉のだが、どうも今回はひらがなにさん付けすることに違和感を覚えてしまったので)と親交の深いイタリア語の翻訳者であるA・G・ジェレヴィーニとよしもとばななの対談。二部はよしもとばななのエッセイ、三部はA・G・ジェレヴィーニによる、よしもと作品の読み解き(博士論文の一部を改めたもののよう)。これらを見るとわかるように、この本は対談・エッセイ・作品解題という色々な要素が入り混じった一冊。
 『イタリア語の読める日本人がよく挙げるのは、原文より翻訳のほうが読みやすいという、(中略)それは作品が読まれる背景の違いによることだとわたしは考える。』(P16)日本語ですら、異様に読みやすいのに、(単純に文章でなく、背景の違いだとしても)それ以上に読みやすい感覚というのはちょっと想像できない。
 対談で、ちょうどファーストネームがAとBになっているのは、ちょっと面白いw。
 『読んだ後に何かちょっとだけ気持ちが楽になったり、自然のあるところに行ったような気分でちょっと気持ちがすっきりしたとか、何でもいいんですけど。自分がいる空間と別の空間に、ちょっとでも行ってもらえれば、もうそれで読んでいなくてもいいくらい。その役割しか感じてないですので。』(P35-6)そういってもらえると不肖の読者としてはほっとするよ。読んでいる最中は面白かったけど、今ではそうした印象や断片的な(余り重要でない)シーンくらいしか覚えてないからなあ(苦笑)。
 よしもとばなな『日本人とイタリア人にはそもそも共通項が多いし』(P71)イタリアが好きで、単純に無邪気に喜んでいるだけなんだろうけど、こういうのは、身内(取材旅行に同行したこともあるようだから)での対談だから普段の素がでているのだろうが対談の文章として読む分には妙に馴れ馴れしく見えて、身内だということをしっかり理解してよまないと媚みたいなのを感じてなんか嫌だなあと思う(そう認識したら、まあ、平気だけどさ)、そう見えるこっちの心が汚いと言われればそれまでだが。
 キッチン『あの小説は全員が、生きていることが難しいくらいのすれすれのところにいるんで』(P80)読んでいるときは、そうした重苦しさを感じないどころか、非常に読みやすかったので、改めて言われると印象との乖離が激しいなあw。読んでからだいぶたっている今残存している印象では精々「満月 キッチン2」では、雄一にその雰囲気を感じた(記憶があった気がする)くらいかな。いやあ、なんか解説か何かにそんなこと書いてあった気もしてきたが。
 2部のエッセイでは子供の頃のクリスマスのエピソードで、『母はなんと、幼い子供たちの欲しいものを、絶対に悟られないようにさりげなく、会話やしぐさのはしばしから一年間かけて調べあげていたのだった。』(P119)というのはすごいな!もうなんか驚きのあまり軽く笑いがこみ上げてきたほどだよ。