神無き月十番目の夜

神無き月十番目の夜 (小学館文庫)

神無き月十番目の夜 (小学館文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
慶長七年(一六〇二)陰暦十月、常陸国北限、小生瀬の地に派遣された大藤嘉衛門は、野戦場の臭気が辺りに漂う中、百軒余りの家々から三百名以上の住民が消えるという奇怪な光景を目の当たりにする。いったいこの地で何が起きたのか?嘉衛門はやがて、地元の者が「カノハタ」と呼ぶ土地に通ずる急峻な山道で、烏や野犬に食い荒らされるおびただしい死体を発見した。恭順か、抵抗か―体制支配のうねりに呑み込まれた土豪の村の悪夢。長く歴史の表舞台から消されていた事件を掘り起こし、その「真実」をミステリアスかつ重厚に描いて大絶賛された戦慄の物語。

 何年か積んだままだったがようやく読了。「始祖鳥記」と「雷電本紀」を読んだ後に、同著者だから買ったけど、カバー後ろにあるあらすじや冒頭をちょっと読んだ感じでは、重苦しい雰囲気になりそうで、一旦読むのをやめて、しばらくしたら読もうと思っているうちに、何年か経ってしまっていた(苦笑)。そんなこと、買う前に気づけというようなことだが、その前に読んだ2冊が面白かったから特に内容を顧慮せずに、適当に購入してしまったのが仇となったw。まあ、でも飯嶋さんの他の小説が読みたくなったから、その前にこれを読んでおかないと更に何年かたっても積んだままになってしまうのでは思い、一念発起して、鞄に入れて、それを読むしかない状況を作って、ちびちびと読み進めてようやく読了。
 冒頭の人の生活感はまだまだ残っているのに、村には人っ子一人いないというのは、メアリー・セレスト号を思い起こす、そんな不気味さだ。
 物語とは関係のないことだが、狼は獲物が無いとき犬を襲うので、狼と犬が一緒にいることは無いという知識ははじめて知ったがちょっと面白い雑学だ。
 藤九郎、開き直ったら強いが、内心では臆病かつ厭戦的というキャラは、ちょっと(大分か?)昔の漫画のキャラっぽい感じ。御犬係(犬追物で撃たれる犬を育てる)の家に生まれたコウは、藤九郎嫌い(自分の育てた犬が訓練のために使われる〈そのために育てているし、暮らせているのだがw〉ため)だが、藤九郎はコウにだけは戦を嫌いだという愚痴を話せて、結局2人が結ばれる、となると、いかにもちょっと前にありがちなキャラだと感じてちょっとげんなり。現代的にすんなり共感のできる人物出すという理由だろうが、正直主役に戦嫌い(1戦経験しただけで)の武士というのは、正直著述者がそれが正しいといっているようで、押し付けられている感じがしてなんか嫌だなあ(特に後々明かされるというのではなく、最初の方からそんな感じなのは)。まあ、最初はそんなこと感じたが、読んでいくと中々先を見る目や胆力があり、頼りがいのある人物としても描かれるので、最初の印象から想定していたより、ずっといいキャラだったけど。
 僕は天邪鬼なもので、現代物の小説内で反戦というのを語られても醒めるし、過去の時代において、そういうキャラをメインでやるとなると、なおのこと醒めてしまう。個人的には戦争は嫌だけどさ、正直そんなもの(反戦思想)現実において食傷気味で飽き飽きとしているから、小説くらいそんな(現代にありがちな言説に焦点を当てた)ものと無縁なものを読みたいと感じるわ。というか、反戦思想について読みたいなら、それについての本買うわ。と、捨て台詞っぽく吐いてみたが、現実においてそんな言説は多いが、またかと思うばかりでまともに見たり読んだりしたことなかったので、そうした食わず嫌いを打破するためにも反戦についての真面目な本を1冊読んでみるというのも案外良いアイデアなのかもしれないな、死刑制度反対派を今まで嫌っていたが「極刑」を読んで、今でも死刑賛成派だけど、反対派の主張も理解や納得することができて、それまで拒否感が吹き飛んだので(個人的には、賛成の理由としては「道徳的バランス」〈死刑は別だというが殺人もまた別だ〉というのと、反対の理由としては冤罪の可能性を0にすることができず冤罪で死刑になりうるという恐ろしい可能性は死刑がある限り残る、という2つの主張で個人的な心情としては前者を取っているが、後者を取る心情も理解できるから)。ふとした思い付きが案外良さそうでなんか楽しくなってきたw、ただ、戦争についてバランスの取れた(感情で語られてない、反戦思想を客観的に分析したような)本を探すのは難しそう(というか、面倒そう)だが。
 森で検地役人たちを分断して襲撃、検地している役人たちに感情移入してみれば、いつもどおりの仕事をしにきたら、村の人々は冷たく、本人たちには理解できない事情で(上からの命令でやっている、本人達の意思でない行為によって)殺される、というのは殺される状況とあわせて、本当にホラーとして書かれていてもおかしくないシーンだ。
 隠田探索、上ではそんなものやると思っていない、少なくとも現時点の目的の中に入ってはいない。それなのに、現場の人間が神域に入り隠田探索(この村の宗教的な意味のある田にまで、課税をしようと)をしたがために、村人が激発して殺すはめになり、現場の役人以外は、厄介なことになったという以外いうべきことのない状態に。一村虐殺の端緒になった出来事がそんなことからはじまったのは、呆れるし、遣る方ない感情を覚える。
 藤九郎、村人の激発を抑えようと苦慮し、自分の命にかえても村ごと多大な罰(虐殺)を防ごうとして、召喚があったためことの次第を述べに行こうとしたが、藤九郎を村から出て行かせまいとする辰蔵たちが強行突破できないように張った、綱に馬が引っかかり落馬して運悪く藤九郎が死亡し(そのことを相手方が謀殺したと噂を流した)、その後辰蔵たちは過激になって、抗戦ムードに村全体がなっていく。
 藤九郎があっさりと死亡した後は、同情心が薄れ、一村のみ孤立し、融和の余地が無くなっていったから、もう当然の帰結という雰囲気になっていってしまったため、当初思っていたよりは重苦しくならなかったかな。
 改めて考えると、藤九郎は最初のうちは微妙に思ったが、2章になって最初に登場したときから時間が経過した後は、まあ領主として頼りがいがある人物になったかな。まあ、はなからコウにだけ愚痴を話すのだから、1章の間でも他の人から見たらそれなりの人物であったのかもしれないが。というか、結局コウの話は馴れ初めくらいで、そのあとの登場は藤九郎が召喚によって死の覚悟を持って家から出るシーンくらいしかないんじゃないか。