中国と 茶碗と 日本と

中国と 茶碗と 日本と

中国と 茶碗と 日本と

内容(「BOOK」データベースより)
日本には、中国ではいつのまにか廃れてしまった「中国」があると、著者は説く。漢字、着物、端午の節句などの行事等々。しかしそれらの「中国」は、どこか姿を変えた不思議な「中国」なのだ。そして茶の湯に親しむなかで著者は、名物茶碗や国宝茶碗の多くが中国から渡来した唐物で、しかも中国には残されていないことに気づく。なぜ日本人は唐物を自らの“国宝”としたのか。なぜそれらの優品が中国には残っていないのか。中国と日本の間に横たわる広くて深い文化的差異の大海に漕ぎ出した、まったく新しい日中比較文化論の誕生である。


 HONZのレビューを見て面白そうだな、と興味を持っていたら、最近図書館に入ったので、やった!と思い、早速いそいそと読み始めた。
 「はじめに」で書いてある日本で、古代中国の文献でしか知らない、屠蘇酒を飲んで感動したというエピソードは、こういうところですごい感動しているのは知識人って感じで、こういう頭のいい人が素直に喜んでいるのを見ると素直に嬉しい(特に日本のことでなら尚更)。
 中国の青磁は2000年の歴史があり、それと引き比べて日本は磁器の生産が17世紀と書いてあるのを見ると、中国の磁器の歴史があまりに深いことを見ると、少しあまりの歴史の長さに呆然としてしまう。
 「源氏物語」の末摘花巻では、『女房たちが、「秘色やうの唐土のもの」、つまり秘色青磁茶碗で貧しい食事をするさまを目にする場面がある』(P48)ように、平安貴族たちは、青磁茶碗を喫茶だけでなく「食器」などにも転用されたこともあったであろうと思われる、とあるが、今まで、「乙嫁語り」の4巻で『何よりこれにご飯を盛るようになったのは意外に新しく 幕末〜明治以降のことだとか』と書いてあったので、単純に社会全体としてそうなんだ、と思っていたが、それは民衆の間で一般的になった時期で、例えばここにあるように平安の貴族だったりといった社会の上層についてはそれ以前から茶碗を食器として使うことがあったということかな。
 当時宋で流行していた天目茶碗ではなく、通常の貿易商品である単なる青磁よりもはるかに上質な砧青磁を日本に持ち込んだのは、伝世品の花生や香炉が仏前に供える道具であることから、禅僧であり、砧青磁が最高の青磁と茶人から貴ばれるようになったことについては影響力のある高い地位にあったと想定できるから、高位の禅僧であり、今まで日本に伝世したような上質な砧青磁は、近年まで生産地の中国で見られなかったため、輸出用の物だったのではといわれていたが、1991年に四川省で日本に伝世した物と相似する砧青磁が出土した。そして、それらの諸条件をあわせると、13世紀中頃から日本に渡来した四川出身の一群の禅僧が砧青磁をもたらしたと考えられる。更に著者はその中から蘭渓道隆を「砧」を日本にもたらした人物だと推定する。誰が「砧青磁」を日本に持ち込んだのか?という疑問から、こうした、歴史の謎解きみたいなことをしているのを読むのは面白いな。
 侘び、オリジナリティを疑問視しているが、他国人にもわかるからといって、そういうのはないわ。他国人にわからないような、神秘的なものにしようとするような、風潮に疑問を持っているからこういう風に書いているのかもしれないが。まあ、茶道の普及により、「侘び」のような精神が国民に一般的に普及、共有されていることが特色、でオリジナリティのではないかと、それと茶道という形式をつくって「侘び」のような精神からくる美意識をわかりやすく可視化したということもあるかと。あと、『おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。』(ボルヘス「続審問」P192)というような感じで、日本の「侘び」があるからこそ、それと引き比べて中国文化にも(あるいは、他のどの文化でもあるだろうが)そういうのがあると再発見したようにも思えるが。
 村田『珠光は、自分の茶の湯が従来の茶の湯と異なり、斬新なものであるという思いを伝えるために、灰黄色の村珠光青磁を絶好の材料としてとりあげたのだと、わたしは判断する。』(P80)これだけでは、自分の名前を挙げるためというのが主目的なように見える書き方だなあ、この後の文章を見ても、いまひとつ、褒めているのか貶しているのかわかんねぇなあwまあ、単純に自身の美的感覚から、美しいと思っただけではなくそういう側面もあったのでは、と見ることもできるという視点を提供するためであろうけどさ。当時の珠光では高い茶碗が買えなかったかもという経済的事情も指摘しているが、それも同時に、例えば農民(というか、農業を礼賛している文人)が日々の生活に思想や美しさを見出すように、普段使いのような安価で身近なものを使ったり、見たりしているうちに、その中に思想、美しさを見出したという、そういうのも並列して書いて欲しい。そういった褒め言葉は常識的(かどうかは知らん、今適当に思いついたことを書いただけだから)だから、日本人なら当然そうしたのは知って(あるいは、思って)いるだろと考えて(僕は茶道についての本を読んだことなかったので正直知りませんが)、省いただけかもしれないが。
 曜変天目が何故日本にあるのに、中国には現存しないのか。理由は窯変が出たらほとんど、すぐに壊されてしまったから、中国は窯変に恐ろしさを感じていた。何故恐ろしさを感じていたのは、敬天思想によるものだ。『日本人には、中国人の敬天思想がない』(P127)と述べているが、天が意思を持って罰するという意識は薄いかもね。不作為に対して、天は我を見放した、と嘆くというのはあるかもしれないが。でも、戦国時代には「宗教で読む戦国時代」を読むと、「天道」思想というような、宣教師達がキリスト教と似ていると思うような、「天道」(GODに近い概念)があったようだし、単に窯に対して中国人のように自身の文化の根源的な部分にある不可分のものという風な(例えば農業とかみたいな)極めて密着した関係というか、天の意思が窯変として現れるという感覚が(製陶は『古代中国では神聖な意味を持っていた。皇帝にとって陶磁器は王権の象徴であり、庶民にとっても陶磁器は身近な日常生活用具であった』〈P265〉)、日本人はないから、窯変に怖れを実感として抱きにくいというだけかもしれないが。
 油滴、禾目の天目茶碗の優品が中国よりも多く日本にある理由は、中国で点茶法(抹茶)は元以降衰退していったので、点茶法に合う風合いをしたそれらの天目茶碗は使い道がなくなり、その折に日本では点茶法が盛んになってきたので、商人はそれらを日本へ持っていったため(中国から持って来たため)、優品が日本へと流入してきた。その結果日本のほうが中国よりも優品が多いという事態になった。
 『この本居宣長によって確立された国学にも疑問を感じる。(中略)中国を排除して日本民族固有の思想・精神を求めた学問に、「国学」という中国語を冠して矛盾を感じないのだろうか』(P164)「オリエンタリズム」が西洋的考えを批判しながら西洋の考えがベースとして批判をしている、ということをどこかで見たのを思い出す話だ。ただ、当の中国人が指摘すると、自国誇りが強く感じる気がして若干鼻につくが。
 明末清初、『伊万里はせっせと景徳鎮窯の染付磁器の贋物を造り、それら芙蓉手はオランダ東印度会社を通してヨーロッパに運ばれる。』(P215)贋物という言葉は強くてちょっとムッときたが、中国で製陶は王権の保護の下に行われ、最良の原料、優れた陶工、最高の技術を占用する、国家的事業であったという、歴史の積み重ねからくる自負心(技術導入したくらいで、コピー以上のものをそう簡単に作れるか、という気分)からくる言葉かな、という風に、読み進めると素直にそう思える。