ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 下

内容(「BOOK」データベースより)
指名手配中の弟の居場所を捜査当局に教えなかった兄は、その行為を責められるべきなのか?論議を呼ぶテーマの向こうに見え隠れする「正義」の姿とは?日常のアクチュアルな問いに切りこむ斬新な哲学対話が、世界の見方を大きく変える。知的興奮に満ちた議論は感動のフィナーレへ。NHK教育テレビで放送された「ハーバード白熱教室」の第7回~12回、および東京大学特別授業の後篇「戦争責任を議論する」を収録。

 見開き末尾の重要なワードの脚注があり、また解説もあるということで読みやすかったので、「これからの「正義」の話をしよう」より、こちらを先に読むべきだったかとちょっと思ったので、そのうち、よくわからないところはこの本を参照しつつ「これからの「正義」の話をしよう」を読み直そうかなと思っている。まあ、読み直すとしても、2013年になると思うけど。(ただ、この感想をブログに載せるのも2013年になりかねない懸念もあるがwちなみに感想を書いたのは11/24w)
 カント、義務と自律(自由に行動すること)が矛盾しないのは、義務から生じた行動が則っている道徳法則を選んだのは自分自身だから。これは、このことを読んだ後すぐにあやふやになってしまう(つーか、いつ読んでも完全に納得することは、なんかできないな)のでいい加減覚えないとなあ(苦笑)。
 たとえで、結婚相手が浮気をしていた、そのときに感じる道徳的な怒りには2つの根拠がある、『一つ目は、私と妻は互いに貞節であることという契約をしていたのに、妻がその契約を破ったことだ。これは同意に関わる。/しかし、二つ目は契約とはまったく関係ない怒りだ。「私は操を守ってきたのに、これではあんまりだ。これが貞節であったことへの見返りなのか」といったような怒りは互恵性の要素がある』(P52-3)一つ目の理由の、同意は自律的なものだから、それを守る必要性がある。そして、契約が道徳的な効力を持つのは、「自律」と「互恵性」の観点からだ。しかし、契約の道徳性なんて考えてみたこともなかったから、こうした2つの基準も知らなかったが、説明されるとなるほど、と思えるし、今まではそうした道徳判断に素手で挑んでいたのに、こうした新しい判断基準を知ることでようやく道具を得たような気分だ(笑)。あとは、その道具を忘れないように気をつけなくてはいかないな。
 格差原理、自由を制限することは『もっとも恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合にのみ許される。』(P62)そうやって、一部のことに限定して制限を認めるのか。それだけでは、現在よりも社会福祉がかなり減るから、個人的にはもっと福祉国家的なものの方に魅力を感じるが。
 能力主義は、たまたま才能を持っているか、その才能が評価される社会であるかという偶然性に左右されるため、才能を使うことによって得られる便益は、道徳的な観点からは、恣意的な要因によって決まる。というのには首肯できる、例えば当時は不遇だったが現在から見て評価されている偉人なんて、評価される社会であるか否かで大きく変わるものの、最たるものだろうな。
 目的論的論法、テロス(目標・目的)からの論理。たとえば、フルートの目的はよい演奏をされることが目的だから、その目的を上手く達成できる人間、最高のフルート奏者、がそのフルートを得るべきであるという論法(ほかに、違う箇所で結婚が生殖を目的としているから、同性婚が認められない、というのも目的論的である、というのは目から鱗)。ただ、コレは自分の方がうまく〜ならもらえると考えると、ある意味子供向け漫画に出てくるガキ大将やいじめっ子(まあ、個人的に連想したのはジャイアンだが、最近「ドラえもん」を読んでいないからそうしたシーンが具体的にどこにあったのかどうかすら定かでないから、単なるイメージやもしれない)が人の何かを取り上げるときの論理みたいとも感じてしまって、微妙な気分になるが。誰のものとも決まってないときはそれでいいかもしれないが、誰かのものと決まっているときはそのままその人のものでいいのかね?こうした目的論的論法で言うと、それがいまいちわからん、まあ、これは単に感想を書く段になって思いついたものだから実際は書いてあったり、なくとも「これからの「正義」の話をしよう」にあるものなのかもしれないけどねw。
 ああ、本質云々というのは、その物の目的からふさわしい人を選んだりというだけでなく、その目的から不純な部分の変質は認め、本質という意味で継続性、同一性を保ったまま変化していくためにその見極めのためにも必要、重要であるのか、と今更ながら気がついた。というか、今までどれが本質か、というのを哲学者思想化がよく言う(そんなにそうした本があるわけでないから、イメージがある程度に過ぎないがw)わけがいまいちわからなかったが、そうした面で必要なのにようやく気づけた。
 『ロールズ的、カント的リベラル派によれば、目的論の論争で重要なのは次の点だ。正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されない。/そして自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきでないということになる。』(P181)ああ、目的論をとると、それらのようなことに拘束されてしまことになってしまうのか、なるほどね。
 過去の歴史に対する責任、自分で作り(選び)出したものにのみ責任を負うというような自由主義では、その当時生まれていない人まで責任を負う理由がない。しかし、マッキンタイアは「物語観念」(人間は物語を紡ぐ動物で、自分が何をするべきかの問いには、まず『どんな物語の中で自分の役を見つけられるのか』という問いから答えなければ、答えられない)を説明して、『私の人生は常に、コミュニティの物語が深く根付いており、私のアイデンティティはそこから生まれるのである。/私は過去と共に生まれてきた。私をその過去から切り離そうとすることは、私の現在の関係をゆがめることになる。』(P195)という自分が過去と連続している正しい認識を持つべきで、そうすると、当然過去の歴史に対する責任も負う責務がある、と考えるとのコミュニタリアン