新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内

新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内

新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内

内容(「BOOK」データベースより)
負の世界遺産アウシュヴィッツ強制収容所」の完全ガイド。同博物館所蔵の貴重な記録写真65点をはじめ、多数の写真・図版・展示室見取図を駆使して、巨大な大量殺人施設の全体像をこの一冊に収載。

 アウシュヴィッツという名前と虐殺が行われていたということ、ガス室などといった単語を断片的に知っているだけで、そこでのことについてある程度まとまった本を読んだことがなかったので、まずは読みやすそうなのをと思っているとき、この本を図書館で見かけて、日本人の著者で検証がメインのものでなさそうでページ数も少なそうだったので、読んでみた。
 この本を読むまで、アウシュヴィッツポーランドにあることも覚えていない位、知識があやふやだったよ。うん、今度こそ忘れないようにしなければな。何故ポーランドの土地に強制収容所が作られたかというと、『そこは市街地から適度な距離があって拡張が容易であり、世界の目が届かないところだったからです。さらにもうひとつ、大事な要素がアウシュヴィッツにはありました。鉄道輸送の合流点であり、既存の通信網も既に整っていたのです。』(P126)ああ、なるほどそんな理由が。というか、ナチスってユダヤに対する殺戮を当時からもっとおおっぴらにやっているのかと思いきや『デンマークの政府と王室から提起された収容所査察要請と、国際的な批判を避けるために、ナチスは旧チェコテレジン(地名・テレジエンシュタット)に「模範的」なゲットー・収容所をつく』(P197)った、というようにそれなりに外向きには取り繕ってはいたのか。
 下段に注や、歴史の解説、写真などがかかれたり挿入されたりしてあって、いちいち*がでたときに、ページをめくらずなくてよいのはいいな。そこにかいてあった「イスラエルの成立と中東紛争」で、1980年『エルサレム全市を首都と宣言した』(P31)とあるが、イスラエルの政治・経済機能的な意味の首都ってどこだっけ?と読んでいるときに感じたが、感想を書く段になってようやく、たしか、テルアビブだと思い出した。やっぱ、エルサレムが一番有名だから、首都忘れちゃうよね(と、自分の記憶力のなさを棚にあげていってみるw)。
 アウシュヴィッツ、到着した人の70%以上がそのままガス室に。強制労働させ、動けなくなってから殺されるのだと思っていたので、最初からそうして「選別」をされるということは知らなかった。特命労働隊、ガス室で殺された人々の死体の髪を刈ったり、宝石や金歯などを集めたり、更に死体の焼却にも従事させられた。同胞のユダヤの人々にそのようなことをさせたという事実は酷くグロテスクだ、既にSS隊員に目をつけられていたため、当人が少しでも長く生き残るためにはそれしか手段がなかった、その状況を作り、特命労働隊に従事する選択を取らせたということにもより一層怖気をふるうような事実だ。
 そうやって刈った髪を生地にしていたとあるけど、実際そんなものがどのように売られて(あるいは、配給されて)いたのかな?
 『一方、戦後、アウシュヴィッツガス室はなかったとか、アウシュヴィッツの事件は誇張されているのではないかとの説を展開した出版物・文献が世界に少なからずある。いわゆる「歴史修正主義」派だ』(P50)こういう文章は、誇張されているのでは?と疑って、検討してようとする視点すら批判しているようで、そのような姿勢が門外漢には、かえって胡散臭く感じられ、うがった目で見られる原因になっているのではないかなあ、もちろん結論ありきで資料の都合のいいところを見るというのはいけないことだけどさ、どういうスタンスとるとしてもね。
 戦前からナチスユダヤ民(この本では、ユダヤ人という人種はいないから、といってこの呼称をつかっている)に対する「人種」差別政策が知られていたから、ナチスの侵攻を恐れていて、『それがキリスト教系のポーランド市民には親ソ的に映り、「ユダヤ共産主義者」がソ連と協力してポーランドを占領しようとしているというプロパガンダを信じる市民も少なくなかった。』(P69)ああ、そういうプロパガンダがあったのね。まあ、単純に二分法にして敵味方を分裂させるのは危険だ、という話だね。このナチスソ連侵攻時にソ連軍が撤退して、権力の空白が出来たときに起こった、地元のポーランド人の住民がイェヴァブネ村で起こった一つの家に押し込めた後放火してユダヤ系住民数百人を虐殺したというこの事件なんかは。
 『ナチスの悪の根源とも言える強制収容所保存のために資金援助するドイツ政府や、そこに協力するコペルニクスの故郷の姿は、ヒトラーとそこに群がった人々の愚かしさとは対称的である。』(P76-77)「対称的」ということ、反対のものということで、すなわち同一線上のもの、同じ心の部分からでてきたものと解っているのだろう。そして、現在のような意識を保つ(逆行しない)ためには不断の努力が必要ということも。そういう人間の精神はどちらにも振れうるということには同意できるよ。
 『この敷地の中で当時、100万人をはるかに超える数の人々がなくなったという事実』(P125)わずかな土地で、わずかな年月の間に、途方もない数の人間が殺されていったという事実には呆然としてしまう、こうして人数を改めて聞くと尚更そうだ。それに、収容者は概ね1万3000〜一万6000の間を推移していて、最大でも2万人という施設でなされたということにも。