再び、立ち上がる

再び、立ち上がる! ―河北新報社、東日本大震災の記録

再び、立ち上がる! ―河北新報社、東日本大震災の記録

内容(「BOOK」データベースより)
あの日、一瞬にして街が消えた。そして大切な人が…自らも被災した河北新報社は、その直後から各地を丹念に取材し、被災した人々を励まし続けた。300日間の苦闘を描く、魂のドキュメント。

 河北新報と震災についての本は、以前読んだ「河北新報のいちばん長い日」というノンフィクションがすごく良かったので、もっと読みたいと思いこれを読んだ。この本を読む前には、なんとなく「河北新報のいちばん長い日」のその後やそれから零れ落ちたエピソードみたいな感じを予想していたが、震災後のルポなどで構成されている本。こうして震災関連の一つひとつの記事を一冊の本に集めることで、いかに3・11が恐ろしい出来事だったのかということが<如実>に伝わる。そして、この本を読んでいて思ったのは津波に関する記事の比率が非常に多いので、そういう意味で地震の大きさよりも津波の方がいかに脅威だったのかということを、知識としては知っていたがより深く体得することができた。
 何とか津波から難を逃れても、寒さで高齢者が死亡したというエピソードが幾つかあったが、そうしてせっかく津波で死なずに済んだのに結局津波で多くの施設が破損したことによる暖房や防寒具の不足により命を落とした方が幾人もいるという事実には、なんだか<やるかたない>ような気分になる。
 仙台市のような誰もが知っている都市でも730人の死者・行方不明者を出したというのが驚きだ、でも何故驚くかと自分でもわからなかったので、それを考えてみると、恐らく知っている地名とこの震災によってはじめて知った地名では初見での衝撃度に差があるのと、やはり都市が壊れると言うイメージがSF染みた感じで想像しづらいという面があるのかなあ。
 屋上にコピー用紙でSOSと作ってならべた学校、写真に収めたがそれによって早急に支援がきたわけでもなく(場所も写真撮った人ですら把握していなかったのだから仕方ないことだが)、結局震災から一週間後になって自衛隊や日赤が来たというエピソード、「河北新報のいちばん長い日」でも扱われ、この本に載せられているものの一部が引用されていたが、その中でも『自衛隊員が一九日、おにぎりとお湯を運んできた。拍手が湧き上がった。/「ごつごつした、いかにも男の人が握ったおにぎりだった」。甲斐さんはその味が忘れられない。』(P47)という一節がなぜか非常に強く印象に残っている。
 気仙沼の水を被った町での火災(港のタンクが津波で流され油が流出したことによるもの)は『市街地が鎮火したのは二三日朝。震災発生から一二日後だった。約一〇万平方メートルが全焼したとされる。』(P53)という話は、なんだか火と水という矛盾したものが相次いで襲ってきたというところが地獄めいた情景という風に感じてしまう。
 浪板観光ホテルの社長、「自分よりお客様を優先するように」といって避難誘導の徹底を命じて、自分も最後まで逃げずに社長や若おかみが行方不明になったのは、有限実行で格好いいという思いと、自分自身が逃げられなかったのでは……という相反するような思いが湧いてくる。
 ダムが決壊して陸の津波となったという出来事があったことは、この本を読むまで知らなかった。しかも津波と異なり逃げる時間すらないと言うのは恐ろしい、まあ、自身によるダム結界で使者が出たのは1930年以降報告例がなかったということだし、避難できる時間もなかったのだから、不可避な出来事で生死がまるきり運任せになり、しかも、ダムだから自然現象だから仕方ないとは割り切れないところにも何とも言えない感覚を覚える。
 防災無線で避難を呼びかけて職責を全うして殉死した人の記事で、遺体が見つかったことを追記で書かれているが『左足首に夫から送られたオレンジのミサンガが巻かれていた。県警のDNA鑑定の結果、遠藤さんと確認された。』(P284)こうしたそっけないような簡潔な書きっぷりが逆に泣ける。そして、こうした大災害において適切な行動をして多くの人を助けたり誘導できたりした人が、小英雄のようになっているのを見ると、戦争時にひとつの場面や死亡時の行動で英雄視される人間が多く出てくるということに対して、初めて実感がわいた。
 石巻赤十字病院石巻エリアのほかの病院が壊滅状態にあったため、多くの人が急患として運ばれてきて、水や食料が不足して、プールの水で手洗いをしたり、食料は19日に地元の農家や業者から届いて改善される前日の18日に『入院患者に提供したメニューはこうだ。/朝食=レトルト赤飯、ゆで卵。昼食=おにぎり、スパムソテー。夕食=焼きそば。』(P122)そして、泊り込んでいるスタッフの食事は一食おにぎり一個だけ、しかも日に日におにぎりは小さくなり『スタッフからは「ピンポン球みたいだ」との声も漏れた』(P122)ように、食事もろくに取れない最中に精力的に一人でも多くの患者を助けようと平時より多忙な日々を送っていたことには頭が下がるよ。
 日本語ができない(あるいはできても、高台や避難がわからない)外国の人は、防災無線の日本語が聞き取れず避難することができなかった、というのを記事を読むと、災害時における、そうした外国語での誘導の必要性を感じる。
 全校児童の7割が死亡した大川小学校、津波がどの程度危険かを捉えそこねたのか、中途半端なことをして多くの児童を死なせたのはなあ、こういう時は最悪の可能性を考えて行動すべきはずなのに、しかも5分あったら高台に避難できた場所だったから尚更大人たちの判断の過ちで子供たちを多く死なせたという事実には呆然としてしまう、そしてそれよりも大川小と石巻市教委が責任を少しでも減らそうとしているのか、言い訳じみたことを言っているのには腹が立つ。