歴史のかげにグルメあり

歴史のかげにグルメあり (文春新書)

歴史のかげにグルメあり (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
旨い食事で接待すれば、それで政治も外交もうまくいく?ペリーの黒船以来、豪華な食事が歴史をつくってきた。胃袋と味覚の変遷でたどる、味わい濃厚な日本近代のフルコース。

 久しぶりに軽く読める日本史の本が読みたいと思い、図書館で読了。文春新書にはなんとなく、そうした本が多く入っているイメージがあるなあ。単に「明治・大正・昭和史話のたね100」そしてこの本と続けて引いた(といっても2ヶ月近くあいているが)からかな。あるいは、著者違うが本の構成が似ているように感じたから編集部のカラーなのかな、ということが頭にちらりとよぎったためか。明治期の人物(ペリーとかサトウとかを除いて)の食に関するエピソード、ヒトによってはそれ以後も生きているからそれ以後のエピソードも入るが。
 『ただし、蒸気船など見たこともない日本人は、黒鉛を吐き出して高速で進む船の出現に文字通り肝をつぶす。異様な“黒船”の宇和麻はまたたく間に広がり、人々の恐怖をかき立て、日本を大きく揺るがした。ペリーのほうでは、四隻に減った艦隊の威嚇効果を危惧していたのだが、それは杞憂だったといえよう。』(P15)いやあ、脅し上げるようなペリーの強硬姿勢の方が衝撃だったんじゃないのかな、とも思うなあ、「黒船」が直接脅威に映ったのではなく、そうしたペリーの姿勢等を象徴的に示したものが、実際に目で見える「黒船」というものであったというだけで、まあ勝手な憶測だけどね(笑)。
 宇和島藩でサトウが受けた饗応に『最も趣向が凝らされていたのは、羽毛が生えたままの野鴨だった。サトウによれば「その鳥は、泳いでいるとも、また飛んでいるとも思わせるような仕組みになっていて、ぴんとはね上がった両翼の間の背の上に焙った肉の細かく刻んだのがのせてあった」。』(P40)というものがあるのを見ると、そういう点では江戸時代って中世的だなあ、という思いを新たにするよ。しかしサトウ、日本料理を全く苦にしていなかったというのは、この時代の外国人としては非常に珍しいなあ。
 井上と伊藤の英国留学『英語が話せなかったため、渡航目的を問われた井上は、「海軍研究」のつもりで「navigation」と答えてしまう。「航海術」を学びたいと誤解された彼らは、水夫と同じ扱いを受けることになる。』(P68)ああ、言い間違いなのね、単に差別、あるいは金をぼっただけだと思っていたよ。まあ、そういう面も確実にあるだろうが。というか、これ、司馬遼太郎の小説に出てきたっけ?出てきたような気もするが、覚えていないや。
 井上馨の妻の武子は、中井弘三の元妻(といっても、本妻は薩摩にいたようだから妾?)で、中井が帰郷するときに生還できない場合を考えて離縁状を書き大隈夫妻に任せたが、武子が井上と恋仲になって、大隈は仕方なく結婚させたが、その後中井が帰ってきたが、事情を知り、結婚を認めた。それ明治になって、井上が建てた迎賓館に「鹿鳴館」と名づけたのがその中井だったというのは、なかなかアダルトな関係ですなあ、妻の元夫と親しくしているというのは、どういう交際しているのか、想像がつかない(いや、名前をつけているのだから、たぶん親しいのだろうという当て推量にすぎんが)。
 『「秋風の鳴る鈴」は、風月堂をモデルに書かれた連作小説の一篇』(P87)小島政二郎の小説らしいが、明治期の菓子店がモデルの小説と言うことですごく興味をそそられるのだが、どの本に収録されているのかわからぬし、文庫などで容易に手に取れ、読めるものではなさそうなので諦めた。
 『西園寺は若くして花の都パリに十年滞在し、フランス語で会話ができ、高貴な生まれで備わった気品があり、立ち居振る舞いも洗練されていた。』(P209-210)『西園寺が相手から見下されることなく、外交の舞台に立てたこと自体、各国に不平等条約の改正を求めていた当時の日本にとっては、意味があった。』(P210)最後の元老、というイメージが強いから、西園寺は外交官と言うイメージが薄いわ。明治の日本では見下されない外交官がいたというのは結構大きいことだと思うけど。
 西園寺、勅語を受けて元老になったが、『元老は法制上の根拠を持たない慣例上の制度』(P214)というのを見て、そんなのに何故勅語をだすんだ?私的なものであるという建前かも知れないが、恐らく天皇が出しているのではなく、側近が出させているんでしょ、たぶん。
 1900年ごろの『当時、欧米の無政府主義者の多くが菜食主義者だったという事実を、今日知っている人もまた、多くはないだろう』(P219)うん、全然知らなかった(あるいは、覚えていなかった)。そのことを主張して、当時『日本人が抱いている血腥い無政府主義者のイメージを否定しようとしたのだ』(P219)ということだが、大逆事件とかもあったから(あるいは学生運動とかの左翼運動で、かなり血なまぐさいことがあったから、それとイメージ重ねて)、今でもそうしたイメージが結構強いんじゃない?いやあ、一般的イメージがどうなのかを知らないけどさ。
 『「菜食主義」のなかで秋水は、アメリカでは菜食がさかんに行われていて、各都市で雑誌も出ていれば、菜食の食料品だけを売る店もあり、菜食の料理屋もあると述べている』(P227-8)ということだが、1906年という100年以上まえからそうした菜食主義というものがあって、アメリカではそれなりに実践している人もいたという事実には驚きだ、てっきりここ数十年で起こったものだとばかり思っていたよ。
 秋水、リューマチで秋水のために働けなくなっていた妻の千代に離婚を求め、菅野と内縁関係になったのに、それを心配した木下尚江が訪ねると「僕の死に水を取つて呉れるものは、お千代だよ」と答えたというのは、ひどく身勝手だなあ。