幻獣ムベンベを追え

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
太古の昔からコンゴ奥地の湖に棲息するという謎の怪獣・モケーレ・ムベンベ発見を賭け、赤道直下の密林に挑んだ早稲田大学探検部11人の勇猛果敢、荒唐無稽、前途多難なジャングル・サバイバル78日。子供の心を忘れないあなたに贈る、痛快ノンフィクション。

 この著者さんは今まで知らなかったが、HONZにおいて「移民の宴」のレビューが掲載されており、それで興味を持ったので、とりあえずそのページにおいて原型と紹介されている「異国トーキョー漂流記」と、amazonで他の著作のレビューも幾つか見てみると、ノンフィクションで単純に面白いと思えるような本を書いている人だそうなので、来年にはこの人の本を1冊2冊でなく一杯読むだろうなという確信を覚えたのもあって、時系列順で読むことは「異国トーキョー漂流記」をなるべく早く読みたい気分になっていたので我慢できないから無理だが(笑)、それでも最初の一冊くらいは出版された順番どおりにデビュー作の本を読もうと思い、この本を読んだ。いやあ、滅茶苦茶面白いし読みやすかったので、あっという間に読了することができた。
 正直ムベンベなんて、東方のレミリアの「ぎゃおー!たーべちゃうぞー!」のネタを、ニコニコ動画で扱われているのをちらりと見たくらい、しか知らなかった(笑)。だが、コンゴ・ドラゴンとも呼ばれる、そこそこ名の知れた(?)UMAだったのね。まあ、正直UMAなんかツチノコネッシー、あと雪男くらいしか知らないから、そのほかの生物がどの程度の知名度あるか、他にどんなものが有名かなんてさっぱりわからないが。
 コンゴ公用語がフランス語だから、フランス語を勉強するのに、ある時電車で隣に座っているのがフランス人だとわかり、フランス語を教えてくれるように頼み込んだというのエピソードは、わざわざコンゴなんて日本と国交のないところへ行こうと企てるような人だからある種当然かもしれないが、すごい行動力だな。
 コンゴへ行くメンバーが決まったとき、メンバーを役職と一言(煽り文句)を加えて紹介する部分の文章が面白いな。しかし、企業に支援物資を貰うために働きかけをするって、そのバイタリティはすごいなあ。
 天理教ブラザヴィル支所で荷物を預かってもらったという話が出てくるが、コンゴにも支所があるのかと驚いた。というより予想外すぎて驚きの前に笑ってしまう。
 荷物が全部あるかを注意してみていたら、メンバーを1人空港に置いてきたことに誰も気がつかなかったというエピソードと、それについての地の文で『これだけたくさん人がいると、メンバーの一人や二人いなくなっても全く気づかない。これも要注意である。』(P73)とあるのには、焦った様子がなく真面目な顔をしながら言っている様子が目に浮かび笑える。
 湖の近くの村の名前がボアだが、どっかで聞いたことあるような……、と思いしばらく考えていたら、「ヒストリエ」でエウメネスがいた村の名前と同じなのかと気づく、つまり全く無関係だったwww、わざわざ思い出さんでもよかったなあ。
 湖へ移動するとき『村上の荷物を担当している男が、昨夜使ったテントを再登載するのを拒んでいるらしい。気のいい村上は、「しょうがないからぼくが持とうか」などと言う。/私は彼の人格の完成度になかば感動しなかばあきれたが、リーダーとして有無を言わさず、そのポーターにテントを押し付けた。一度でもこんなことを許せば、そのうち全てのポーターが荷物を放り出し、湖へ手ぶらで走っていくことだろう。』(P93)人にやらせるのは学生じゃなれていないし、どうも植民地での宗主国の人間が酷使しているさまが連想され印象よくないから嫌がられたら、それでは自分がとなるのはわかるが、仕事は仕事としてきちんとやってもらうというけじめをしっかりつけないとなめられるし、そうされたらこの後何十日も滞在するのだから大変になるから、最初にきちんとしておくのは大事だと思うから、そこらへんがしっかりとしているのは好印象。
 106ページのカヌーに横たわるゴリラには笑った。その後で、そのゴリラのことについて書かれていて、どうやらドクターに襲い掛かってきたから銃で射殺したようだ。ドクターはポーターたちがゴリラを殺すことを駄目だと注意したのに、それでも、わざわざ持ち帰ってきて食べるのには笑った。
 著者がテレ湖をドゥーブルと一周しながら、狩猟して食料を得ていく場面は好きだなあ。
 『実際、狩りで殺され運び込まれるのを見て、解体を見物し、その肉を堪能した動物にはひじょうに親近感を覚える。「食べることは愛の表現の一種だ」と前に本で読んだときには図式っぽくて信じ難かったが、真実のような気がしてきた。/ましてや「自分の手で殺してその肉を食べる」ともなると、最高にそれを好いているということかもしれない。究極の愛情とはこんなに一方的でわがままなものであろうか。』(P182-3)それを怪しんでいた人が実体験でそういう気持ちになるということは、やっぱり、死体の常態から肉になる過程を見ると、愛のような、そういう感情がわくものなのかねえ。いや、そうした知識を知っているから、抱いたその感情を愛と規定しているだけかもしれないが。それと、どうしても「最高にそれを好いている」が(食料的に)という括弧がついているように感じてしまうなあ(笑)。あと、食べるものが限られていると味覚が繊細になって美味しく感じるようになるというのは、そう考えると古代とか中世の人も、今考えると貧相な食事だと思えることもあるが、現代人が同じものを食べたときよりも、かなり美味しいと感じながら食べていたのかな、と思った。
 船越、日本でも変わっているという評価があるという人だが、コンゴの奥地の人たちでも変わり者と認識しているというのは面白いな。
 湖に来た早々にマラリアにかかって寝込んでいた田村の回想の文章は、なんだか文学にある、穏やかで頭のいい青年の一人称のような文体だな、いや上手くいえないが、福永武彦「草の花」や村上春樹とかあんな感じの文章で、なんか自分のことで身体が弱っているのに他者への攻撃性のない穏やかな感じの文章で読んでいて好ましい。
 文庫版あとがきで「コンゴ・ジャーニー」に、自分たちもコンゴで世話になった、アニーニャ博士とヴィクトールが出てくるとあるのを見て、どこかの書評で本当にノンフィクションだと信じられなかったというのを見たことがあるが、そういう場所(同じ場所ではないだろうが)に行っていたのかと改めて驚いた。まあ、そう考えると「コンゴ・ジャーニー」を書いた作者の感受性とか文体の違いもあるのかなあ。