バウッダ[佛教]

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
バウッダ―サンスクリット語で「仏の教えを信奉する人」の意である。二千五百年におよぶ歴史の中で、誤解と偏見に満ちた教学により誤伝されてきた釈尊の思想の壮大な全貌と、初期仏教の発生から大乗仏教密教へと展開する過程を、膨大な経典群から探究。単なる宗教の枠を超え、思想としての仏教の実像を鮮やかに描き出した、日本仏教学の達成。

 思ったよりずっと専門的で難解な内容なので、目が滑ってほとんど理解できなかった上に、感想を書くまでに何ヶ月も間が空いているから全く持って覚えていない(苦笑)。中村元さんは最初と最後だけ書いているだけで、ほとんどの部分は三枝さんという方が書いているというのも誤算だったわ。まあ、個人的には読む段階に至っていなかったのに無理やり字面だけ読んだって感じだ。解説に、『難解な仏教教理や用語をひろく一般の思想の分野にも開放して論じたものとして、定評が確立した貴重な書物である』(P481)とこの本のことを述べているが、一般の思想についてもろくな知識がないからなあ(苦笑)。なので断片的に意外だと思ったところをあげていくことでしか、感想書けない(苦笑)。
 長座部仏教に対する貶称の「小乗」という言葉は、インドの史料では用例は乏しく、中国において一般化したものだというのは知らなかったわ。また、最初期の大乗仏教が最も多く学び、それゆえ最も強く反発した説一切有部(もしくはその一派)だけを「小乗」と呼んでいた、というのは、そりゃ周り全部を敵にはまわさんよなと納得(笑)。
 冨永仲基、加上で有名だが享年32かよ!
 大正蔵経、『この出版以後は、全世界の学者がこれに依拠して、「大正」または「Taisho」の略語のもとにそのまま引用する。』(P125)という、なんかすごそう(頭悪い感想ですみません)な本が日本で出版されていたのか。
 大乗仏教の論書の多く、例えば龍樹の「中論」、も詩で書かれているとは知らなかった。どうにも詩と論理的な著述物とは私的なイメージとそぐわないから、ちょっと違和感があるな。また阿含経は問答形式である、原型は散文であったらしいが、詩の形式に置き換わったように、散文を詩型に置き換えて語ることで、記憶の便を図ることもあったらしいので、最初から記憶され、流布されやすいように詩として書いたのかな。
 仏法僧の『僧とは、元来は、教団全体を示して、個人を表わす語ではない』(P240)僧がそうした集団を示しているのは以前知ったが、他に敷衍して考えたことはなかったので、仏法僧の僧についても個人でなく教団のことだと知り、そりゃそうだよねと気づかなかった自らの迂闊さを苦笑いしながらも納得。
 大乗仏教の出現で、釈尊のほかに多数の仏が登場し、経が仏説である点は変わりないが、『大乗の経は釈尊とはまったく別の仏の作品』(P327)である。それは、やはり仏教ないし仏説=釈尊仏陀)の教えだというイメージ強いから、かなり意外だ、よく考えれば、数多の仏が出てきたのだから釈尊とは別のものがあって当然なのだが、改めて指摘されるとハッとする。
 『いわば主体も客体も消え去って、主客の区別(これを「分別」という)は消滅して、無二となり、合を果たす。こうして生じた知を「無分別智」と称し、ここでいう無分別は、今日の日常語の用法とは正反対の、「最も崇高な智のあり方」であって』(P398)こういう本来の意味と現在使われている意味が違うという話は結構好きだわ。
 『中国のように、もともと独自の思想・文化を遠い古代以来維持し続けた国においては、極端に評するならば、仏教はその割れ目に挿入されて、一時期(といっても数百年間)に勢いを振るった程度であるのに対し、チベットもそうであるけども、日本の場合には、上述したように、大乗仏教―大乗文化に圧倒的なほどに一色に塗り込められ、しかも日本人の古来の新城や独自の感情が依然として根強く底流をなすところから、日本の仏教には、いつしか日本人における独自性と外来性というあい反するものが混交し、しかもそれはこの「大乗」の語のもとに、容易に、もしくは安易に促進される。』(P418)中国は一時的なものだけど、チベット・日本は仏教(大乗と密教で違うけど)一色という指摘は、チベットと日本にそんな共通点があるとは思わなかったので面白い。
 『昔の日本でも、日本の知識人たちは、哲学的思索に従事した。しかし、そこには、「哲学」と呼ばれる特別の学問分科は存在しなかったのである。それのための一つの理由は、たぶん宗教に対する反感・敵対がなかったので、「哲学」と呼ばれる別の独立の学問文化を発展させようとは欲しなかったからである。』(P435)宗教に対する反発がなかったから、「哲学」という別ジャンルの学問にならなかったという指摘は面白い。
 一方でインドでは西洋の「哲学」に対応する伝統的なダルシャナという語があった。またインドには哲学を意味する別の語でアーンヴィークシーキーがあり、それは『カウティリヤ実理論』(三世紀頃)において、それまで哲学を神学の特殊な部門とされていたものを、哲学を独立の部門として強調した(もっとも哲学を神学〈ヴェーダ学〉と対立させるのは古く法典の中にも現れているが、強調したという点で意義が大きい)。