約束された場所で underground 2

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)


内容(「MARC」データベースより)
救いを求めて旅立った若者たちがなぜこんな所に辿り着いてしまったのか? オウム信者徹底インタビュー、河合隼雄との対話によって、地下鉄サリン事件を生んだ「たましい」の暗闇に村上春樹が迫る。


 「アンダーグラウンド」を読んでからすぐにこっちも読もうと思っていたんだが、思ったよりもずいぶん間が空いてしまった。また、読了後に感想を書くまでも同じく間が空いた、なんか最近は読書し終えてから感想を書くまでの間がどんどんと大きくなっているから読み終えたらさっさと感想を書かなければな、まあ、まずそれには、とりあえず読んだけど感想を書いていない本をさっさと消化しなければならないけど。
 まえがきに前作「アンダーグラウンド」に、『「視点が一方的だ」という批判を一部で受けたわけだが』(P11)ということだが、オウム側に寄っているならまだしも、地下鉄サリン事件の被害者側が自分の体験を村上さんに語ったもののインタビュー集なのだから、正直そういう批判をする人もいたのかと驚いた、それにそもそも地下鉄サリン事件に直接関わったオウム側の人って拘置所の中か逃亡中だったろうし、インタビューできるのだろうか?
 この本は元オウムの信者に対するインタビュー集だけど、あんな事件があっても一応、辺鄙な場所での共同生活とか修行とかにはプラスの印象をまだ抱いている人が多いね。まあ、現実に行きづらさを感じ、そういうものに魅かれて入信した人たちなのだから当然といえば当然なのかもしれないけれど。
 『論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の筋道)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力がない人がそんなことをやってはいけないと、わたしは思います。そういうことにかかわってはいけないということですね。他人の死んだ後をしっかり見極めて、それを引き上げてあげたり、もしそういうことができるのであれば、あるいは(自分でも)やったかもしれないですよ。でもオウムの中で、そこまで言っている人は一人もいないでしょう。』(P51)まあ、純理論的な話で、そこまで行った人がテロを起こすかは別の話であるのだろうけど、そこまで行っている人はいないけど行っているのであれば、その行いは許容されうる、と至極当然の結論であると確信を持って言っているようなのは恐ろしい。
 オウムという団体は金がかかり、ステップアップするのに金が必要だ、ということをいっている人がいたが、それに触れている人が少ないのでそれもちょっと驚き。
 「シャクティパット事件」という語は聞いたことがあったが、それはどういう宗教団体の言葉かわからなかったが、この本の中でシャクティーパットという語が出てきたことで、あ、その語はオウムのものなんだとはじめて気づいた。
 尊師の命令に絶対服従というのは、命令の種類や命令する相手によって違うのかわからないが、出家した人でも強引さを感じなかった、というのは意外だった。インタビュイーは「藪の中」といっているが、非常に当を得た喩えだな。
 破壊したり、スパイ容疑を受けた人を逆さ吊りにして反省(スパイ容疑は事実としてそうでない人もいるだろうに反省もクソもないだろうが)をさせたりというのは惨いな、実際それで死んだ人も出たようだが、そういうことをされた人は(インタビュー当時)結構教団に残っているというのは意外と思ったがその後の説明で、そういうのを死ぬ直前までやって最後に温かく声をかけると、与えられた試練をのり超えることができたと感謝する、とあったので強烈なつり橋効果みたいなものなのかと納得。他にも薬で人体実験まがいのことをしてたり、プライバシーに関するいやらしい質問をされたことに対し抗議すると、一畳の独房に閉じ込められ夏なのに暖房をガンガンとたく水を飲んで不浄物を出すという修行をさせられる、などなど色々とひどいね。
 松本(麻原彰晃)は「自己」と「煩悩」を同一化させた。その安易な自己喪失プログラムによって、自己が失われれば無差別殺人やテロに無感覚になったことで件の犯罪が発生する温床となったという説明には納得。
 ある元サマナの女性の話で、電気ショックで記憶を消された、ということにはあまりにも突拍子もないことに思えて本当かな?と疑ってしまう、いやでもわざわざこんな嘘っぽいものを創作するかな、とも思えるが、と考えているうちに、宗教に入る人ってこういう半信半疑の状態で(それに加えて少なからぬ好奇心が附与されていると思うが)、試しにみてみようとか、枯れ尾花ということを確かめてみようという軽い気持ちでいったりして嵌ったりするのかなと感じたりした。
 『僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に影を与え、深みを与えているわけです。音楽で言えば倍音のようなものを与えている。ところがオウムの人たちは、口では「別の世界」を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平坦なんです。あるところで広がりが止まっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります。』(P295-6)以前ミステリーやライトノベルを現在よりもかなりの量(一日2冊とか3冊とか)を読んでいた時期に、なに読んでもありがちなものに思えて面白さを感じなくなってしまったときがあったが、それも結局僕の読みがひどく浅いので(現在でも成長していない)そう感じるというだけであって、その時は他のジャンルの本を読んでいるうちに気にしなくなったが、そう言うような感覚が現実で覚えているのだったら辛いよな、と思った。現実に対する意識を変えよといっても現実に魅力を感じないのだから非常に難しいだろうし、僕は本を結構読むほうだと思うけどそれは娯楽だしと自分に言い訳して、読みを深くしようなんて試みたことがないくらいだし、そうなれたら楽しいだろうなという羨望はあるけど(笑)。
 最後の村上春樹さんと河合隼雄さんの対談を読んで、現在の社会に馴染めない人の救済ために俗世から離れた場所があってもいい、というかあったほうが普通の社会に馴染めない人が現実に押しつぶされて壊されないようにするためにもいいのではないか、という肯定的な感情が強くなった。もちろん、おかしな団体でないことが前提だけどさ。でも、俗世から離れたら、当然社会常識からも外れることになってしまうから、世間から見ても危険性がないと安心できて、社会に合わない人の逃げ込み場にもなる場所というのは非常に難しいのかな、とも同時に思うが。