昭和史 戦後篇 1945-1989


昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

内容(「BOOK」データベースより)
授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博した「昭和史」シリーズ完結篇。焼け跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細にたどる。世界的な金融危機で先の見えない混沌のなか、現代日本のルーツを知り、世界の中の日本の役割、そして明日を考えるために。毎日出版文化賞特別賞受賞。講演録「昭和天皇マッカーサー会談秘話」を増補。


 戦前・戦中までの話はずっと以前に読んだのだけど、その時はやっぱり日本軍の愚行を直視するのに大変精神的に辛かったので、しばらくしてから戦後篇を読み始めよう、なんて思っていたら一年半以上間が空いてしまったので、いい加減読まなくてはと思い読了。戦後篇は、マッカーサーにムッとするところは当然少しはあるにしても、全体的には戦前から戦中の話に比べてずっと精神的にはきつくないので良かった、それに元々文章は非常に読みやすいものなのでスラスラと読み進めることができた。そして、極めて重大な変化がその時期に集中しているから仕方ないけど、戦後十年くらいの記述が圧倒的に多いなあ。
 終戦直後の八月『十六日の新聞で、御前会議がいかにして行われ、天皇が身を捨てて聖断を下して戦争を終結させたかを知ったかなりの人が、深い感動を抱いたのは事実のようです。』(P15)その事実を知って日本人の多くが戦争に負けても天皇に対する信望を抱いたままだったから、GHQ天皇を殺せなかったのか、というかこの状況じゃ殺しても日本人であると感じる人がいる限り、日本史上最高クラスの英雄・偶像として生き続けるだろうし、殺したら本人が自重を促すことができないから少なからぬ人間が激発すること必至になるだろうし、単純な親米派の形成が困難になるだろうからね。昭和20年の12月に東大社会学研究所が東大生を対象にしたアンケートを実施したが、天皇制否定が6%で天皇制支持が75%とインテリ層でも圧倒的多数が天皇制を支持しているようだし。
 天皇マッカーサーの最初の会談で『天皇に対するマッカーサーの大いなる尊敬が生まれてしまった。』(P42)何度も本人が語っているということだから、その尊敬は本当なのだろうな。そして、昭和天皇が会談の際に飲み物に一切口をつけなかったという矜持には惚れる。
 終戦直後は本土決戦するつもりだったから備蓄があり、その備蓄が放出されたため、8月9月はかなりの物資が出回っていたということは知らなかったので、かなり驚いた。
 高見順という作家の日記において『朝日新聞マッカーサー総司令部の命令で二日間発行を停止された。戦争中は自由主義的だ民主主義的だとにらまれていた朝日がこんどは『愛国的』で罰せられる。面白いと思う。』(P71)と書かれているか、朝日新聞が戦争中そんなこと言われていたとは知らなかった。流石に戦争中の全期間そういわれたわけではないと思うが、処罰されたことにより強い一貫性があると思えて、体制の尺度により批判され方が変わることを嘲笑しつつ、朝日はずっと変わらない姿勢を持っていると好意的に書いているのかもしれないけど。
 戦後第一回の選挙、全部で33政党もあった。その中に「在日本朝鮮人連盟」というものがあるのにかなり吃驚した。そのときは、まだ独立していなくて、日本人として選挙権を持っていたのかな?いや、戦後にかなり横柄な態度だったという風評は聞くから、もう敗戦後には日本人としての選挙権を持たなくなったのかなと思っていたが、こんな政党があるとか良くわからん。もし、日本国籍をもつことを決めたなら、わざわざ朝鮮人という別の国を連想させ、日本の国益のために行動するとは思えない名前を政党名につけるのもわけわからんし。
 幣原が軍隊を持たず、戦争をしない平和日本にしたいと述べたのに対して、マッカーサーは『それはすばらしい。原子爆弾などという殺人兵器でもって戦争を続けていれば人類は滅亡する』(P158)云々と述べているのは、その後の朝鮮戦争で彼がしようとしたことを思えば失笑を禁じえない。もうひとつの軍隊を持たない云々をマッカーサーから言い出したという説なら尚更。
 「人間宣言」によって今までの国家観が天皇によって否定されたことによって、実際は国体護持がなされなかった、ということははじめて知ったがそうだったのか。
 米よこせデモ『デモ隊は坂下門からついに宮城の中に押し入り、「天の魚の毎日の食事の献立表を見せろ」と前代未聞の叫びを上げました。まあ、ふたを開けてみるとたいしたものを食ってなかったので呆気にとられた、という話も残っているのですが。』(P203)このエピソードは天皇が飢えで民が苦しんでいるときに、贅沢な食事をしていなかったことがはっきりとわかるので好き。
 『与党の敗北という結果となり、吉田茂さん率いる自由党は、「それなら第一党に譲る」とあっさり内閣を総辞職しました。これが非常に鮮やかだったものですから、立派立派ということで、日本人のすこぶる気に入るところとなり、結果として後に自民党内閣がずーっと続くことになるのですが。』(P210)こうやって書かれるということは、この時分は、内閣と与党が一致していなくても良かったのか!そのことが一番の驚きだよ。と思ったが、他の党と連立して政権を維持することをしなかったということなのか?
 1949年から年齢の数え方が数え年から満年齢へと変わった、とあるがもっと前から満年齢だと思っていたので、それまでずっと数え年だったことに驚きだ。あと、そのころの新聞のページ数が4ページ程度だったということにも驚いた、そのページ数じゃ、紙一枚で足りちゃうじゃん!
 1954年にあった、組合員5700人による近江絹糸ストライキ騒動、このストでの女工である彼女らの主張の内容が『「結婚の自由を認めよ」「宗教の強制をするな」「親書を開封するな」などの根本的なもの。つまり社長の許可がないと結婚できなかったり、宗教を強制されたり、手紙を開封されたりしていたわけで、実に人権の根本的な問題でストが行われているわけです。』(P373)その頃でもまだこんなに基本的な人権が社長の恣意によって踏みにじられているところがあったのだ、と愕然とする。そして、これは大規模なストライキを展開したからこそ有名になったものであって、この件が極めて稀な人権蹂躙の一例というわけではないということも容易に想像がつくから恐ろしい。
 造船疑獄事件、現在の一説によると自分のポケットに入れたのではなく佐藤栄作は、鳩山、三木、河野らを自由党に戻すため、抵当に入っていた鳩山の音羽の御殿を救おうとして二千万円という大金を都合して渡した、と言われている。しかし、鳩山派は当時佐藤をガンガン追及した。だから、その後佐藤は徹底的な鳩山嫌いになった、というのは本当だとしたら実に面白い話だ。
 『東大教授の上野千鶴子さん(昭和二十三年生まれ)の談話によると、大学闘争の中身は、全共闘はシンパ(周辺的同調者)も入れて約二割、アンチ全共闘が約二割、の頃の大学生の六割はいわゆるノンポリだった』(P121)というのは、過半数ノンポリということで、案外政治に関わっていた人少ないのね、と一瞬思ったが、全共闘の2割というのはよく考えたら滅茶苦茶多いな。現在は、政治運動している人であったり、それに同調して協力している人の割合は確実に1割もいないでしょ。
 『昭和天皇は、太平洋戦争においてもそうなんですが、子供のときから軍人として非常に鍛えられた方ですので、戦術的・戦略的な目は特に秀でております。ですから、これから中国共産党も出てくる、北朝鮮共産国になる、ソ連もどんどんアジアへ進出しているといったときに、アジアをその進出から守るためには、グアム、沖縄、台湾の弧を描いた線で守るほうがいいと戦略的にわかっていた』(P588)ため、アメリカ軍の日本駐留について、沖縄の長期貸与を提案した。それがのちに昭和天皇が倒れたときに『「沖縄にはないかなければならなかった」と何度もいった』(P587)理由の一つであったというのは、非常に興味深い。また、昭和天皇が戦術的・戦略的な目が秀でていたという話も知らなかった。