巨流アマゾンを遡れ

巨流アマゾンを遡れ (集英社文庫)

巨流アマゾンを遡れ (集英社文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
河口幅320キロ、全長6770キロ、流域面積は南米の4割にも及ぶ巨流アマゾン。地元の船を乗り継ぎ、早大探検部の著者は河をひたすら遡る。行く手に立ちはだかるのは、南米一の荒技師、コカインの運び屋、呪術師、密林の老ガイド、日本人の行商人…。果たして、最長源流であるミスミ山にたどりつけるのか。波瀾万丈の「旅」を夢見るあなたに贈る爽快ノンフィクション。

 写真がかなり多く入っている、ガイドブックとして書くはずが、旅行記に化けたというかなり変わった本。途中で最後のページを見て、「地球の歩き方・紀行ガイド アマゾンの船旅」として刊行されたものの文庫化ということが書かれていたので、地球の歩き方って読んだことないけど、こういう旅行記風なものなの!?と驚くと同時に他の地球の歩き方の本も買ってみようかなという気になっていたけれど、あとがきをみると、出版社が意図したものではないものだったが、面白いということで、製作総責任者が社内の反対を押し切って出したもので、通常の「フロンティア・シリーズ」とは形態が違うので、「地球の歩き方・紀行ガイド」という新シリーズ(といってもこのシリーズはこの1冊のみで終わったようだが)で出版した本なので、地球の歩き方にこういう旅行記風のものが他にあるというわけではないようなので残念。
 ブラジル東北部の内陸部の奥地(セルタントゥ)は国内最貧地域。そこでは、雨が降らないところの多い荒地(セラード)で牧畜をするので、緑の絶えた大地となる。そうすると、人々は他の荒地に移動して一からやり直すか、飢え死ぬか、山賊になるしかなかった。そして、『19世紀から20世紀初めにかけて、絶望した人々の中に、幾度か強烈なメシア信仰が生まれ、バイーア州などでは、コンセリェイロという預言者のまわり原始キリスト教のような共同体ができ、鎮圧にきたブラジル連邦軍を再三にわたって撃破したりした。』(P17)という説明がなされ、その後にバルガス・リョサの「世界最終戦争」は、セルタンゥの反乱を題材に取ったものである、と書かれてあるのを見て、今までタイトルからしてSF的なテイストがある作品なのかな、でも純文学の作家だしSFテイスト入れるにしてもそうした直裁なタイトルつけないだろうから、どうした内容か想像付かないな、と思っていたが、そうした歴史的事件を題材にした小説ということか。
 ブラジル・アマゾン『外国人の旅行者にものをねだったり、ボッたりしようとしない。商売はうまくない。細かいことは気にしない。たとえ貧しくとも堂々としている。そのかわり、自分のプライドが傷つけられたときには黙っていない。』(P46)ねだったり、ぼったりされないというのは、単にお金の問題というより精神的な意味でも旅行者にとっていいことだと思うし、この高野さんの文章を読む限りでは、アマゾンの人たちはさっぱりとした気持ちの良い性格の人たちのようだな。
 高野さんのサークルの後輩の宮沢、高野さんとは逆方向からアマゾンに沿って旅行するはずが、ペルーについて早々に警察(!)に所持金の2/3とカメラを奪われ(残りの1/3は隠し持っていたために無事だった)、残りの金も船旅の最中に盗まれるという災難に遭った、しかしポケットにある残金が高野さんとの合流地点への船代くらいあったため、船に乗船したが金がないため断食していた、しかし3日目に甲板の手すりにもたれもがいているところを船員に哀れに思われ食事を与えられる。テフェでは、共に街へ降り立った行商人のオヤジに雇用され行商人として働くことになる。あるとき彼は座禅に近いヨガのポーズで心を落ち着かせているところを見つかり、その格好で客寄せさせられた。しかもそこで、5000クルゼイロ(約2500円)で行商人のオヤジ売られかけ、それを高いといわれるなど中々壮絶な体験をしているな。しかし、その間に街でも指折りの裕福な商人の18歳の娘に交際を求められ、『「私はあなたにどこまでもついて行くわ、お金のことは心配しないでいいから」と宣言していたそうな』(P142)といわれていたなど謎のモテ男ぶりも発揮していたそうだが。しかし、高野さんと再会したときに条件反射的にまずズボンを売りつけようとしたというのには思わず声が出た(笑)。
 『コロンビアは、独立以来、一度も独裁政権が長期に行われたことがないという中南米では希な国であり、それくらい民主主義が発達していたので(もちろん、日本の民主主義とは異なるし、もっと複雑な歴史背景があるのだが)、ゲリラやマフィアの増殖を妨げなかったという部分もあるのだ。』(P159)民主主義が発達していたから、ゲリラやマフィアが増殖したというのは皮肉だな。それの意味するところは、独裁政権によって、他の暴力組織が強く排斥されなかったから、ということでいいのかな?
 インディオのマヨルナ族の村に行ったときの話で、動物の鳴きまねをするにとき、ある状況下では……、という状況設定をしてから鳴きまねをして、彼らは動物の鳴きまねをするとき「ある動物」なら常時こう鳴く、例えば猫ならニャー、というようなものがなく、場面場面の鳴き声しかないというのは面白い!動物が身近にいて密接に関係性を持つから、固定的な鳴き声というのは不自然に感じるからだろうか。
 外部の人間を襲撃するインディオをクルブ族(実際は2〜3部族?)と呼ぶ。しかし、インディオによる襲撃事件は、1968年以前には確認された事例も伝えばなしとしても1つも報告されていなかった。だから、クルブは「最近でも」野蛮ではなく、「最近」野蛮になった。1968年以前はインディオによる襲撃事件はなく、それ以後に発生した新しい風潮だということは心底驚いた。
 『よく本には、「インディオは、コカの葉をくちゃくちゃ噛んでいる」と書かれているのだが、これは誤り』(P234)であり、実際はコカの葉は噛んだら、葉が細かく千切れのどの奥にはりつくので『唾液である程度湿らせてから、ちょうどサルが頬袋に食べ物を貯めるように、口の両脇に葉を貯め、そこから染み出る苦味のある汁をちゅうちゅう吸う。十五分〜二十分くらいであじがしなくなると、また葉っぱを取り替える』(P234)という風に口の中に含んで汁を吸うものだというのは、はじめて知った。