歴史を考えるヒント

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

内容紹介
日本、百姓、金融……。歴史の中で出会う言葉に、現代の意味を押しつけていませんか。「国名」は誰が決めたのか。「百姓=農民」という誤解。そして、聖なる「金融」が俗なるものへと堕ちた理由。これらの語義を知ったとき、あなたが見慣れた歴史の、日本の、世界の風景が一変する。みんなが知りたくて、誰も教えてくれなかった日本史を、中世史の大家が易しく語り直す。日本像を塗り替える名著。

 網野さんの本は以前結構続けて読んだのだけど、著者名だけで内容を忖度せずに買っていたら専門的な内容の物でいまいち興味が持てないようなものが多かったのでしばらく読んでいなかったが、これは一般向けの判りやすい本のようなので、読みやすいだろうと思い購入したが、その見立ては間違っておらず面白く読めた。
 正式に「日本」という国号が定まったのは、689年の浄御原令においてというのが定説で、「天皇」という称号もそれと同時に決まったということは知らなかったが、これらは列島の歴史においてかなり重要な時代の転換点であるのでしっかりと記憶しておかなければな。ただ、網野さんの「日本国」の出発が7世紀末だから、2月11日が建国記念の日なのは道理に合わないという主張は、それ以前と以後で政権の担い手が変わったわけではないのだから、正直難癖だろうと思うのだが。2月11日は神話によるもので性格でないからだめという主張なら、実際に大和王権が誕生した日にしろというならそれは不明でわかるはずもないものだから、建国記念の日は不明で通せということになるし、王家は「日本国」という国号を定める以前から存在しているが、便宜的に「日本国」という国号を定めたときを建国の日としろというのであれば、建国の日を便宜的に神話的に天皇家が誕生したとされる2月11日とするのでもいいのではないか、と素人考えにはどちらも変わらないように思うのだが。かつて「倭国」と呼ばれ自らもそう名乗っていたとしても、自ら国号をつけないとどんなに王権が列島内で力を握っていても国や政権とみなさないということであるならば(現代ならともかく古代でとなると)変な話だと思うし。
 「西国」という言葉は、かつては京都など畿内からの視点で用いていたので、「西国」というのは日本の更に西の中国や天竺(インド)を指す言葉として用いられた。のちには、九州のことを「西国」というようになったが、これも畿内からの視点であった。しかし、「承久の乱」(1221)で幕府が後鳥羽上皇を破って以降、六波羅探題の管轄範囲を西国と呼ぶようになり、それから畿内を西国に含めるようになった。こうして、「西国」という言葉の変遷を見ると、東国に幕府ができて日本全域へ力が及ぶようになってから、畿内のことを西国と呼ぶようになったというのは中々興味深い。
 「土民」ないし「土人」、元々はその土地の民というだけの言葉で差別的な意味はなかった。明治以後もアイヌを「旧土人」と呼んでいたことも本来は侮蔑的なものではなかったようなので、差別的なニュアンスが加わったのは結構最近(といっても何十年も前のことだろうが)のことのようだ。
 『時代は下りますが、戦国時代に東北の伊達氏が『塵芥集』という分国法の中で、興味深い法令を出しています。当時の社会では、狩人が狩りをしているときには、山の中を往来している人のものを奪うことが習慣として認められていました。ところが、それを悪用して狩人と称して山賊行為を行う輩が現れたため、規制する法令を出したのです。その内容は、一定の場所から三里以内の道では物を奪い取ることは許さないが、その先の山中で狩人が往還の人々から物を取ることは認める、という物でした。』(P180)その時代の感覚としては、山中では全てのものは山の神に帰属し、その状態のときは山中にいる人のものを奪うことは山の神も認めるという感覚があったとのことだが、現代の感覚から考えれば、理解不能な理屈で、何故許され、社会的に認められていたのかがさっぱりわからない習慣だ。
 自由は当然中国から入ってきた言葉だが元来は「専恣横暴な振る舞いをする」という語義で用いられていたが、日本に禅宗が入ってきてから(中国語での意味の変遷がいつあったのかは書いてないのでわからないが)日本語の「自由」に「思うままになる・制約を受けない」というプラスの意味も混じってきた。江戸時代はそうしたプラスの意味の自由とマイナスの意味の自由が平行して使われた。そして、明治には福沢諭吉がフリーダム、リバティを「自由」と訳したが、それは「原語の意味は、日本語の我儘放蕩で、国法をもおそれぬという意義の語ではない」と断っている。自由なのだから何でも許されていると思っている人がいるけど、そういう人たちは現在尊ばれている「自由」のことを、「我儘放蕩」という日本語のマイナスの自由の意味とフリーダム、リバティの訳語である「自由」が混じったものとして、あるいは前者だけの意味と取り違えたものとして考えているのかね?