幕末史

幕末史 (新潮文庫)

幕末史 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現。役人たちは周章狼狽する。やがて京の都はテロに震えだし、坂本龍馬も非業の死を遂げる。将軍慶喜は朝敵となり、江戸城は開城、戊辰戦争が起こる。新政府が樹立され、下野した西郷隆盛西南戦争で城山の地に没す―。波乱に満ち溢れた二十五年間と歴史を動かした様々な男たちを、著者独自の切り口で、語り尽くす。

 わかりやすくするためとは言え、たとえば『ジョン万次郎さんが漂流して日本へ帰ってきた頃には死刑はなくなっていましたが、もう少し前に戻ってきていればきっと死刑になっていたでしょう。』(P17)というのは、有名どころの大黒屋光太夫とかも違うし、漂流して帰ってきたら死刑になったというのは具体例としては聞いたことがないのだけど実際にあるなら具体例が知りたい。あるいはジョン万次郎の日本に西洋の文物を持ち込んだような、西洋文明について日本人に広めようとするような姿勢から、ちょっと前なら死刑になったといっているのかな。もしそうなら、言葉が少し足りないような。
 それと、『当時、市中で囁かれた「ないないづくし」の歌があります。/「二百数十年もつづいてきた御規則(鎖国のことです)を破りたくない。(後略)』(P36)には、こういう歌が囁かれていたということだから、鎖国江戸幕府の時代になってからという認識を、市井の人が持っていたのかな?まあ、それをちょっと知りたいなと思っても、原文がないから「二百数十年」という修飾語が、実際に当時の歌にあるのか、それとも現代語訳にするときわかりやすく付け加えたのか、どちらなのかはわからんからなんともいえないが。
 ペリーとマッカーサーがやったことは同じ、つまり上から尊大にというような態度をとったので、個人的に両者とも嫌いだが、そういう嫌な奴じゃないと日本人に内部からの変化を余儀なくさせるくらいの外的ショックを与えられなかったということなのかね。
 「江戸百万」といわれるが、ペリー来航時の江戸の人口は、町人が男女合計57万5091人で、武家と町人の比率はだいたい2:8とされているので、合計70万人足らずだということははじめて知った、案外少ないのね。まあ、色々説はあるのだろうけど、ここまで少なく推定したのを見たのは初めてだが、それなりに説得力があるから実際どうだったのだろうか、ちょっと気になるな。
 ペリー、国書の受領書に「早々に御出発相願度候」というのがきて、頭にきて、江戸ワンに入ってきて示威行為をするが、ペリー側にも早く帰りたい事情があり、それは、国書を受け取ったほうへお土産をもってくるのが国際的な礼儀だったので、ペリーは日本側に気づかれてそこを指摘されるまえに帰ってしまいたかった、というような裏事情はなんだか呆れる。
 長崎海軍伝習所時代の勝麟太郎(海舟)は、一橋派の永井尚志、岩瀬忠震大久保一翁らに重用されたので、「一橋派に組みこまれていたと考えられ」るとのことだが、勝は14代将軍の徳川家茂から信頼が厚かったということだから、今まで紀州派かと思っていたので、それはちょっと意外だった。いや、よく考えれば、紀州か一橋かでもめていた時期は、開明的な人物は大概一橋だったと思うので、そう不思議なことでもないが、やはり家茂との関係のイメージで意外に感じてしまった。
 ハリスが『日本滞在記』で日本のことを褒めているのを、『「唐人お吉」(船大工の娘で伊豆下田の芸者だったお吉が、看護婦という名目でハリスの下に送られた)のこともあって、日本人の民族性を褒めたのかもしれませんが』(P69)と書いているのは、ピューリタント的なハリスとお吉はそんな関係にならなかったらしいので、邪推だと思うのだが。
 勝さんの船酔い云々というのは、福沢諭吉が後に自著で遣米使節の時に「勝艦長は船酔いして全然役に立たなかった」というふうに書いたからであり、勝はアメリカ人の手を借りずに、日本人だけで行ったという歴史に残る事実を残したかったのに、アメリカ人の手を借りたから、最初の一週間ぐらい不貞寝していたのではないかという想像には、いくら船に弱くても、何年か船乗りとして訓練を受けていた人間がいつまでも船酔いが直らないなんてことがあるのかな、と思っていたので、なるほどと頷ける。
 孝明天皇が外国人嫌いだったので、幕府の政策に反対する人間には、朝廷が反駁府運動の先頭に立っていると意識され、そのためにこの幕末の時期になって尊王思想が一世を風靡した。孝明天皇開明的でなかったが故に、維新後の開明的な明治政府のトップに天皇が据えられるまでの存在になったというのは皮肉だね。
 徳川慶喜、『これ以上頭を下げるのは自尊心が許さない、(中略)勝手にしやがれ、とばかりに四月二十日、将軍の名において「攘夷の期日を五月十日とする」ときめ、二十二日に在京諸大名に公示したのです。』(P160)というのは、我慢が利かないなあ、いくら見識が優れていても、我慢できなくなったらなげやりになるこうした行動はいかにも子供っぽい、政治家として必要である粘り腰というようなものがないよな。結局、こうした一時の激憤で自身が困るわけだし。まあ、結局彼は現実の政治とは距離を置いて、政治評論家的役割をやっていたほうが良かったんじゃないかな。あるいは、頭の回転が速く、議論に強かったのだから煽動家とか。しかし、なんつうか、意見を翻しまくる慶喜を見ていると、なんで英明だのなんだのという評判が高かったのかわかんなくなる、いや頭がいいからこそ時勢に反応して手を打とうとするけど、堪え性がないから意思貫徹をできずに、色々とから回ってるのだろうけど。しかし、こういう意見の翻しようを見ていると、戊辰戦争時、一戦してあっさり江戸に帰って謹慎したのも、慶喜本人の性質を考えると不思議というにはおよばない出来事だったということがわかるよ。そして、慶喜が朝敵になりたくないといって、幕末で彼ほど天皇に対して忠義の臣はいなかったというのは、たしかにものごとを投げ出す癖もあるけど、江戸に帰ってからはほとんどぐらついていないのだから、信じてもいいという気にはなる。
 薩英戦争、幕府からかなり賠償せしめているのに、薩摩にも賠償を要求したとはがめつすぎるわ。まあ、アヘン戦争とかを起こしてから25年も経っていないのだから、このくらいで驚いていてはいけないのかもしれないが。
 高杉らが下関の代官所を襲撃し、船を3隻確保したときの人数が60余人で、キューバカストロが革命を成功したときに率いていたのが61人というので、60人集まればある程度のことができるのではないかと思う、と書いてあるが、そうした同じような人数でクーデターを起こし成功したというのは面白い。
 桂と龍馬は剣術修行中に知り合いだったという巷説が流布しているが『時期が異なっていて会っていないというのが正しいようです。』(P215)というのは、てっきり知り合いだというのは史実だとばかり思っていたので、実際にはあっていないというのは驚いた。
 勝とパークスが会談して、勝はパークスの信頼を得たことで、パークスが慶喜らを死刑にしないように働きかけた(働きかけるまえに、新政府側で既に死一等を減ずることは決まっていたが)というのは知らなかった。ここにきてイギリスが中立になったのも、新政府が幕府に対して力押しを選択しにくくなったから、日本にとっては良かった出来事だね。