半島へ、ふたたび

半島へ、ふたたび (新潮文庫)

半島へ、ふたたび (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
その日、僕は韓国に初めて降り立った。ソウルの街を歩き、史跡を訪ね、過ぎ去りし植民地時代や朝鮮戦争を振り返る。しばしば、二十四年間囚われていた彼の国での光景がオーバーラップする。ここは、同じ民族が作った「北」と地続きの国なのだ。旅の最後に去来した想いとは―。第二部として、翻訳家という新たな人生を切り拓いた著者の奮闘記を収める。新潮ドキュメント賞受賞作。

 図書館で「拉致と決断」をパラパラと流し読みして(といっても、短いから、順番はバラバラで興味のあるところから読んでいたが、恐らく全部読んだと思う)、ちょっと興味がわいたので、文庫化しているこの本を購入。
 「ルンルン気分」なんて言葉を使っているのに時代を感じ、拉致された期間の長さを思ってちょっと悲しくなる。
 北朝鮮では、ピョンヤンから中国東北部あたりに存在した高句麗を持ち上げて、逆に韓国では、現在の国内の地域から発展した新羅を称えている。そうした、公的評価が相反する事態になっているのは、いかに両陣営が現在の版図からものを見ているか、そして相手側で発生したものはやはり同じ民族のものでも現在の領土から発生したものに比べて一段低くみてしまうという半島を2分した考えが前提となってしまっているかというのがよくわかる。
 『都市の歴史や庶民の文化、恨の魂が込められているタントルネの消滅に心を痛めている人も少なくない。』(P104)恨って、そんなに大事なの、正直字面からはあまりよいイメージがわかないのだが。いままで、朝鮮は恨がどうのこうのという話は聞くが、どういった定義のものかは、よく考えたら知らないのでちょっと定義と彼の地の人たちにとってどういう位置づけなのかについて興味が出てきた。
 北朝鮮に居たときにキムチを毎年作っていて、配給された唐辛子を使ってキムチを作るのだが、製粉するのに全体の10%をとられるのが嫌で一回、自分でうすでついて加工したようだが、粉になって舞い上がる唐辛子で、涙や鼻水がから垂れ流し状態で大変だったので、自分でやるのは一度きりでやめたということだが。そんなに大変なら、機械がなかった時代はキムチをどのようにしてつくっていたのだろうと疑問に思った、当時は粉状にはしなかったのか、それとも毎年そんなに辛いことを我慢して作っていたのか。
 北朝鮮は、以前稲の「密植」(高密度の田植え)して化学肥料を大量使用して高い収穫を得ていたが、その後は土地の酸性化などの弊害を招いて生産力が落ちた、その密植が原因で食糧難の主原因となったとみる日本の専門家もいる。というのは、まあ、以前テレビで似た内容を見たから、やっぱりそうなのか、と頷ける。しかし、韓国でも似たような密植が行われているというのは、知らなかったので驚いたわ。なんか、朝鮮半島には密植が行われる特殊事情が存在するのだろうか?
 蓮池さんが本を翻訳した韓国の作家についての話にあった、『父親がそれぞれ異なるため、姓の違う三人の子供を育てながら』(P159)というのを見るに夫婦別姓というのは大変だと感じる、少なくともこういう子供は父の姓と決まっているのは。
 蓮池さんの高校時代の友人で、現在翻訳家で活躍されている佐藤耕士さんがいたことが翻訳をやってみようとするきっかけとなったのか。しかし、蓮池さんが帰国してから翻訳家になるまでの道程を書いた「第二部 あの国の言葉を武器に、生きていく」はこの本の中で一番面白い!しかし最初の何ヶ月かは市役所づとめをしながら、朝2時半とか(!)から起きて、出勤するまでの間を翻訳する時間に充てて、翻訳をしていたというのは、すごいな。そんなのむしろ寝る時間じゃん(笑)。
 帰国後、『スキーをもう一生できないのかと思うと、寂しくて、悔しくて、鬱憤のやり場に困った。』(P224)というほど好きだったスキーを29年ぶりに再開したが、29年前よりも上手くなっていたというのは驚いたが、だが実は用具の進歩によってそう感じたのだという理由も直ぐあとに述べられたが、それもそれで30年近いブランクを埋めて余りあるほど用具が進歩して使いやすくなっているのは非常に驚きだ、スポーツをやった経験は皆無に等しいが用具でそんなに変わるものなのか!
 長年その国、その言語で生活していても、しばらく使わないと、自分でもわかるほど発音が不自然なギクシャクしたものになるから、しばらく再びなれるための時間が必要だというのは、そんなものなのか。別の言語を使ったことないから、そこらへんの感覚はわからん。
 『待たされ、叱られ、緊張させられるのが、昔の歯医者さんの常だったからだ。』(P253)という風に述べられているが、歯医者の雰囲気ってそんなに変わったのか、と意外だった。というか、歯医者がやけに恐ろしく描かれているような表現が、昔(まあ、今でもパターンになって存在しているけど)の漫画とかにあるが、あれは別の誇張とかではなく当時の実感だったのかな。
 蓮池さんが翻訳した本の作者さんの父(日本だった時代に教育を受けたから、日本語できる)が、しっかりした訳だと日本語を褒めていたというのは、いいエピソードだが。そのあとの、北に拉致されて日本語を翻訳する仕事をさせられていたことに、北には日本語が話せる人がそんなにいないのかと呆れていたというのは、蓮池さんも苦笑いをしたと書いてあるが、読んでいて反応に困るなあ。人民が西側の情報を訳していくうちに、そちらに惹かれないのか心配とか、情報を隔離するためいうのもわかるが、拉致してまで徹底するというのは普通ないわなあ。まあ、そもそも拉致という行為自体、利益があるとは思えない行為だから今更だが。
 昔北朝鮮に入ってきた、旧ソ連や中国の映画は、声優が1人で芝居しているような作品があり、90年代でもその吹き替えが放送されていたというのは、いくらなんでもひどすぎる(笑)。まあ、娯楽性を重視しない国柄だから声なんてどうでもいいだろ、と思っているのだろうが。それに、もうちょっと何人かで吹き替えを新たにしたほうがいいと思っても、それを口に出すと、面白さを高めるためという余計なものと考えられ、そんな提案した奴が白眼視されるとかもありうるから、誰もわざわざリスクを負ってまで口に出そうとしないのかもしれないが。