ミャンマーの柳生一族

ミャンマーの柳生一族 (集英社文庫)

ミャンマーの柳生一族 (集英社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
探検部の先輩・船戸与一と取材旅行に出かけたミャンマー武家社会だった!二人の南蛮人に疑いを抱いたミャンマー幕府は監視役にあの柳生一族を送り込んだ。しかし意外にも彼らは人懐こくて、へなちょこ。作家二人と怪しの一族が繰り広げる過激で牧歌的な戦いはどこへ…。手に汗握り、笑い炸裂。椎名誠氏が「快怪作」(解説)と唸り仰天した、辺境面白珍道中記。

 ミャンマーの情勢を江戸時代初期の状況と重ねて、理解しやすいようにしてくれているが、そもそも柳生一族についての知識がないから、柳生ダレソレだと喩えられてもいまいちピンとこないなあ。でも、その外の有名な藩や将軍を使った喩えはどれほど的を射ているのかはわからないが、その喩えのおかげでわかりやすくなったけど。じゃあ、何故読んだかというと、荒山徹さんみたく荒唐無稽なものだと思って読んだ、というわけではなく、タイトルの、ミャンマーと柳生の組み合わせから内容が想像できないから気になったので読んだ、という理由が購入時に脳裏によぎったかも知れぬが、実際には、高野さんの本は読みやすいからあんまり考えずにとりあえず買ったというだけのこと(笑)。
 船戸与一さんの取材旅行に通訳・ガイド役として同行することになるが、高野さんは2年に1回の割合でミャンマーに行っているが合法的に入国したのが10年前というのは驚きだ(笑)。そして、非合法に国境を越えたことが8回、未遂を含めれば11回というのは多すぎる、ミャンマーと中国の国境があまり厳しくないのかもしれないが、国境ってそんなに簡単に越えられるようなものなんか?そして、『ごく自然な流れで外国人の出入りが厳しく制限されているミャンマーのゲリラ支配地区に通うことになった。』(P14)普通は、ふつうの人が行けない、行かない場所を選択するにしても「ごく自然な流れ」でゲリラ支配区には、ふつうジャーナリストでもない限り行かないよ(笑)。また『電気・水道・ガスも人権も社会保障もなく』(P14)といった風に、電気などのインフラと人権を同列に並べて、いかに現代日本とはかけ離れた場所かを端的にあらわす、すばらしい表現だな(笑)。
 船戸さんの小説は読んだことないのだけど、作家本人は恐ろしく豪胆なお人柄だということはよく理解できた。元麻薬王という重要人物かつ柳生サイドとしては絶対にあわせるわけには行かない人の家に行きたいといっておきながら、一回知らないと否定されるとあっさり諦めるって、友達の家だったり食堂みたいな感じで行きたい、というのには、高野さんの書いている通り「かけがえのない元麻薬王を大切にしよう!」と同調したくもなるわ(笑)。そして、木陰で休んでいるとき、高野さんに暇だから何か本を持っていないかといって、高野さんから宮部みゆき「堪忍箱」を借りたが、それを見て、『んー?おー、みゆきの本じゃねえか』(P188)といっているが、船戸さんと宮部さんは気があう友人のようだが、「みゆき」という呼び方は高野さんが言っているように『前に初めて船戸さんが「みゆきは売れっ子だからよお……」とかいったときには、私は馴染みの芸妓の話でも始めたのかと思ったものだ。』(P188)というように、船戸さんのキャラもあいまって水商売っぽい呼び方になっているのには笑える。
 和服の素材を使って作った特製のロンジービルマ式腰巻き)が「キモノ」と呼ばれているのは知らなかった。どうして和服の素材を作ったものが生まれたのかというと、増田さんという方が戦争中にミャンマーで現地の人に協力を頼む仕事をしていて、その人が戦後仕事が軌道に乗った後、占有の墓参や世話になったビルマ人にお礼をするためにミャンマーにいくときに、和服の素材を使ったロンジーを呉服屋に頼んで作ってもらい、それを土産として持っていったところ評判になった。そして、その「キモノ」への要望が多いので、本格的に「キモノ」の販売を始めたところ、輸出するまでもなくミャンマーの船乗りがその店まで買いに来るようになった。また、60年代まではミャンマーと日本の経済水準が変わらなかったから、呉服店からうちにもキモノ・ロンジーを作らせてクレとお願いされるほどだったというエピソードは凄く面白い。
 いくら民主化運動の中心的役割を担っていて軍政府にとってわずらわしかったとはいえ、ヤンゴン大学、マンダレー大学という国内トップ2の大学を事実上つぶすとはなんという力技だ。
 しっかし、旅行会社の通訳が英語がろくにわからないって、もし高野さんがビルマ語できなかったら、他にわかっている人もいるようだが、わざわざ打ち解けてもいないときに自らの仕事の役をかなぐりすててまで、通訳を自らするとは思えないから、どうやってコミュニケーションをとるつもりだったんだ一体。
 ミャンマーにしばらく滞在したあとミャンマー側から見る、川を挟んだ中国の町は以前滞在したときは南国の田舎と感じたのに、ミャンマー側からマンハッタンのような大都会かつ羨望の地にみえる、というのは面白いが、そうした心理効果はいったいどう呼ぶのだろうかね。
 ゲリラも軍情報部も『彼らは民族こそ異なるが、私への応対の仕方はほぼ同じであった。/まず、とにかく丁寧である。気をつかいすぎるほど気をつかう。その一方、私の行動を逐一監視し、「あっちへ行くな」とか「一人で出歩くな」とかうるさい。』(P134)という点でも一致しているようだが、ここの描写を見ると、そういう点でも江戸時代っぽい感じがして可笑しかった。