古代ローマ人の24時間

古代ローマ人の24時間 ---よみがえる帝都ローマの民衆生活 (河出文庫)

古代ローマ人の24時間 ---よみがえる帝都ローマの民衆生活 (河出文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
さあ、2000年前のローマ帝国の首都に住んでみよう。タイムスリップさながら、臨場感たっぷりに再現された古代ローマの驚きの“1日”を体験できる一冊。食事、服装、住宅、買い物、学校…公共浴場、闘技場、夜の饗宴など、庶民の暮らしを鮮やかに再現したベストセラー、待望の文庫化。

 文庫になる前から読みたいとは思っていたが、いざ文庫化されると、よく考えたらローマの本ってほとんど読んだことないから、この本を読む前に何か読んでみようかなとか、500ページ以上の長い歴史の本を読む気力が今はないなあなどと思っていたら、いつの間にか時間だけがずるずると過ぎてしまったので、ローマの歴史知らなくても、これを読んでから興味が湧けばいいや、それよりずっと気になっていたのだからさっさと購入して読み始めようと思ってようやく読み始めた。しかし、ローマの歴史知らなくちゃいけないのかなあと思って、ぐずぐずと今読んでいいものか迷っていたのだが、ローマの歴史を知らなくても全然平気な本だったので、ちょっと拍子抜け。まあ、それはローマ人の暮らしを描くものなのに、自分で勝手に読むハードルを挙げていたせいなのだけど(笑)。
 同じようなこと別の時代や都市でもあったな、と比較できる対象が江戸時代しかなかったから、江戸を念頭においてみていたという点も少なからずあるためか、ローマって江戸に似ている面があるなと感じる記述が多々あったが、それは近代的なインフラが整備される以前の大都市ならどこでもあったようなことなのではないかなとも思えるが、実際はどうなのだろうか。
 『さいわい、ローマに住んでいる私にとって、一日という時間の流れのなかで、それぞれの通りや歴史的建造物にどのような方向から光が当たり、どのように見えるかを描写することは、さほど困難ではなかったし』(P13)そうした描写を苦慮せずに書ける表現力や語彙(文章力)はうらやましく思うなあ。僕は住んでいるところでも良く行くところであっても、相手に伝わる文章で書くことは不可能だとわかるくらい壊滅的な文章力と観察力しかもっていないので(苦笑)。
 都市ローマには150万人が住んでいたというのは尋常じゃなくでかい都市だな!その1500年以上後の江戸(七〇万〜二〇〇万と諸説あるが)と、大体同規模だということを考えると尚更、その規格外の大都市ぶりがよくわかる。
 かなり裕福な人が住む、ドムスという戸建ての邸宅でも『冬はあちらこちらから隙間風が入って寒く、暖をとる手段といえば各部屋に置かれた火鉢だけだ』(P40)そういう暖房器具の貧弱さはどことなく江戸に似通っているようでそこはかとないシンパシーを覚える(笑)。そして古代ローマの住宅は、壁のフレスコ画や床のモザイクの装飾が豊かであるのに比べて、調度品が少なくソファーや肘掛け椅子、絨毯や棚があまりない。ローマには詰め物の技術がないため、椅子はすわり心地が悪くクッションを置くことで補っていたため、あちこちにクッションが置かれていた。箪笥は古代において「最新の発明」(このような箪笥を用いたのはローマ人が最初)であり、現代のように衣類ではなく、グラスや秤、あるいはインク壷や化粧道具など壊れやすい高価なものを収納するために用いていた。
 ローマにはまだ石鹸もヒゲそり用のムースがなかったため、半月形の剃刀と水だけでヒゲを剃っていたので痛かった、という記述を読んで、そういや江戸時代も石鹸なくてヒゲなしの文化だったけど、当時も痛い思いしながらヒゲを剃っていたのかなということが少し気になった。
 ローマの裕福な家庭には平均して5〜12人の奴隷がいた。現代では、奴隷が家電に取って代わった、と述べて奴隷の人数が多すぎるという人は、身の回りの家電を数えてみなさいと書かれていることには、虚をつかれた。道徳面を横に置いて、そのように考えると、、確かに多すぎとは考えられなくなるな。
 2世紀のセプティミウス・セウェルス帝時点には、インスラという集合住宅は4万6602棟あり、ドムスという戸建の邸宅は1797棟しかなかった。その割合のバランスには驚愕。当時のローマに戸建に住む人は本当に大金持ちだったのだ、ということがこうした数字を見ることで強く理解させられるよ
 そうしたインスラに住む人の調理場には(2階に住む結構裕福な人たちでも)、可動式の火鉢のような炉といったような最低限の設備しかなかった。また臥台に寝そべって食事をするのは、宴や祭りのときだけで、それ以外は普通にテーブルに向って食事をした。インスラの一階には店舗があり、2階が裕福な人が住む層であった。そして上に行くごとに収入が下がっていく。しかし、火災が多かったというような記述を見ると、ますます江戸時代との共通点が感じられるなあ、火災なんぞで江戸と同じだと喜んではいけないのだろうが。
 水道は通っていても1階か2階までであり、また、水周りを一箇所に固めたため、調理場と便所がしばしば同じ場所にあった。
 『ローマは、究極のところ大きな一軒の「家」のようなものだ。現代の寝室に当たる部屋は、通りに面したインスラの中、トイレ(公衆便所)は別の通り沿い、シャワー(公衆浴場)は別の地区にある。そして、台所(ポピーナ)は、更に別の場所に……といった具合だ。』(P142)こういう記述を見ると、江戸を想起させるが、他の記述でもそういう江戸時代でもそういうことあったような、という点が散見されるので、電気とか近代的なインフラが整備される前の大都市というのはどこの文化圏でもそうした面があったのかな、と思う。
 ローマの中心地には二台の荷車がぶつかることなくすれ違ったり追い越したり出来る幅の広さを持つ「通り(ウィア)」が2つしかなかったということは衝撃、一体どれだけ密集していたんだよ。
 『ときには、性交を意味する、人差し指と中指のあいだに親指を入れた拳の形のペンダント』(P156)おお、そのジェスチャーはローマ時代から変わらないものであったのか、とそんな卑猥なジェスチャーがそんな歴史を持つものであったとは思わなかったため驚いた。
 黙読は修道院で聖書の一説を「内在化」するために生まれたものだったので、ローマの人々は声に出して文を読んでいた。
 ローマの馬は現代の馬よりも小さいが、「現代の「大きな」馬であればすぐに音をあげるか、あるいは脚を悪くしてしまいそうな起伏の激しい土地を歩くのに適していた。」(P208)ああ、小さい馬にはそういうメリットもあるのか。それなら、日本の馬が小さいのも山が多い土地だから、(現代のサラブレッドから見ると)小さくても日本には適していたのかね。
 『毎年、二〇万〜二七万トンの小麦が船でローマに運ばれていた。しかもローマに小麦を輸送していた船のうち平均五隻に一隻は途中で沈没したり、積荷を失ったりした』(P217)荷を失う確率のあまりの多さに驚いた。
 『古代ローマの街路に漂っていたような雰囲気を味わえる国々が現代にもある。たとえばインド。インドでも、ドレープの入った丈の長い服やベールに身を包み、サンダル履きか裸足で歩いている人とすれちがう。インドと同様、ローマの道路も舗装されておらず、いたるところで子どもたちの集団がかけずりまわっていた。そして、街角にはところどころに小さな祠があり、神への供物が置かれていた。それだけでなく、服の色が鮮やかなことや、店先に並べられた商品の色鮮やかなところまで似通っている。
 帝政期のローマでは、インドと同様、わずか数メートル歩くだけで様相が極端に変化することがある。異国情緒を感じさせる香水を身にまとった女性とすれちがったかと思うと、路地裏から不意に鼻をつく悪臭や、脂ぎった料理のにおいが漂ってくる。このような両極端のものが路上に混在しているもうひとつの例は、金細工や宝飾品のまわりを取り囲むように絶望的な貧困が蔓延していることだ。』(P219-220)古代ローマとインドとが似ているという指摘は、今まで両者を合わせて考えたことがなかったので目からウロコだ!
 コロッセウムに出てくる野獣は、幼少のときに捕まえられて闘犬と同様に相手を攻撃するように調教されたもの。
 一人前の剣闘士になるためには長い年月が必要だったため、剣闘士が死ぬと主催者は大きな賠償金を支払わなくてはいけなかったうえ、名剣闘士をとりまくファンのことを考慮すると簡単にいのちを落とすわけに行かなかったので、試合の大半は敗者に慈悲を与える結末で終わり、一方が死ぬまで続けられる戦いは比較的少ないものだった。
 トイレ、人を隔てるついたてなどの仕切りがなかった。しかし、トゥニカのおかげで大切な部分はずいぶんと隠れた。また、家にトイレがあるというのは一種のステータスシンボルだった。
 ローマの料理は基本となる材料は現代のイタリア人が食べているものと大差ないが、『一方、現在のイタリア料理に見られないポイントは、味をいくつも重ね合わせることだ。私たちは、異なる風味の組み合わせから生じるハーモニーこそ美食の妙だとかんがえているが、ローマ人にはさらにその上のレベルがあった。ある味のものと別の味のものを一緒に食べてみると、元の二つとはまったく異なる完全に新しい第三の味を引き出すことが出来るというものだ』(P474-5)単なる口内調味じゃない、と一日本人としては思うのだが、やはり現在の欧米の方には馴染みのないものなのね。
 『ローマの料理において香味料や香辛料が多用されていたのは、じつは「腐りかけている」肉や魚の臭いを隠すために必要不可欠だったからでもあった。』(P480)中世で香辛料が多用されていた理由でも同じ記述が出てきて、そうだったんだと感心していたのだが、すっかり忘れていた。「腐りかけている」肉や魚に香辛料を多用できる裕福な層が食べているというのは中々イメージが重ならないから、記憶に定着しないなあ、まあどういった階層であっても近代以前の人々は、食品が腐ることを現代よりも強く意識していたし身近であったことをしっかりと頭の中に入れておかなければな。
 晩餐の最中に食べ物を嘔吐する習慣があったというのは、真偽の判定が難しいものとの記述があって、今までよくそのエピソードを見かけるから、真実と疑っていなかったのでビックリした。