散るぞ悲しき

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

内容紹介
水涸れ弾尽き、地獄と化した本土防衛の最前線・硫黄島。司令官栗林忠道は5日で落ちるという米軍の予想を大幅に覆し、36日間持ちこたえた。双方2万人以上の死傷者を出した凄惨な戦場だった。玉砕を禁じ、自らも名誉の自決を選ばず、部下達と敵陣に突撃して果てた彼の姿を、妻や子に宛てて書いた切々たる41通の手紙を通して描く感涙の記録。大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

 「硫黄島からの手紙」も見たことないから、トップが有能であるという日本軍では稀である事態が生じたため、この時期の日本が善戦するという椿事が起った戦いというくらいしか知識なかったが面白く興味を引かれたので、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」をちょっと見てみたくなった。
 個人的には第二次世界大戦の話は読むのに辛くて時間がかかるのだが、この話は単に軍と軍のぶつかり合いで民間人の被害はないということと、この時期の日本軍には非常に珍しいことにかなり善戦した戦いということもあって、すごく読みやすくて面白かった。元々、伝記だから日本軍の敗戦、愚行をひたすら見続けることはなさそうだということと第二次世界大戦を扱った書籍の中ではページ数少ないから読んだのだが思った以上に読みやすかったので、他のこの時代についての歴史の本を読もうという気にさせられたよ。あと最近の人の著作ということもあって、戦争に対する距離の置き方が肌にあうのかもしれない。まあ、そういうのは時代によって価値中立的な書き方が変わってくるから仕方ないがね。
 当時軍属で裁縫係だった貞岡さんは「閣下のもとで死にたい」と父島まで追いかけてきたが、初めて怒鳴られ、内地へ帰された。それほどまでに心酔し、現在に到っても栗林さんのことを尊敬しているというその純さには感動する。というか、こうした古風な上下関係で上が慈しみ、下が敬愛するということを死んでも崩さず持ち続けるような関係というのは好きだなあ。なんか好きという感覚があって、それを言葉でどう表現すればいいのかわからないから、大分言葉足らずになっているかもしれないけど。
 書名にもなっている「散るぞ悲しき」という言葉は、辞世である三首の歌のうちの一つの部分であり、新聞に掲載時には「散るぞ口惜し」に改変されていた。元の「悲しき」は、死んだ兵士たちを「悲しき」とうたうというタブーを犯した、兵士への鎮魂の賦であり、軍中枢へのぎりぎりの抗議であったが、そのために改変され掲載された。
 硫黄島が何故戦場になったかというと、他の小笠原諸島の島々は山が多く、大きな飛行場を作れるのはここしかなかったため。
 栗林が上下で差をつけることを禁じたというのは、一旦戦闘が開始されたら補給もままならなくなるだろうから、連帯感を養うためにもいいことだっただろうし、当時は上下の差異が厳しいからより一致団結で苦楽を共にしているという印象を下のものに与えたのだろうな。
 最高司令官という自分の判断で兵士を死に追いやる地位の者は、何かよりどころ持つことで折り合いをつける、それが自身の優秀さを根拠としたり、の儀対象のように自分を厳しく律することによって折り合いをつけるものもいるが、栗林は日々を常に兵士たちと共に過ごすことで折り合いをつけた。
 地元の中学校から陸軍士官学校に入学しているため視野が広かったというのは、この本のあとに読んだ「責任 ラバウルの将軍今村均」にも幼い頃から軍人一筋のエリートたちよりも一般の教育をある程度受けた人たちの方が人間味もあるし、有能であるという書かれ方をしていたが、やはり幼少から軍人のエリートになるために教育を受けた人はどこか感覚がおかしくなるのかね。
 せっかく硫黄島に行っても、時間制限があるのと、硫黄島は火山島だから地面の凹凸が激しかったり、壕が隠れている場合もあるので危ないから、せっかく肉親が死した場所の近くまで言っても道路や車中からの参拝しか許されないこともあるというのは、『お願いします、そばに行かせてください。三〇秒でもいい、車を下りて線香をあげさせてください』(P180)というような遺族の言葉を聞くと、もうちょっと融通利かせてあげられないのかな、と思うわ。
 有名な写真に写る星条旗のポールとして米軍が残骸の中から使ったのは、水が非常に不足していた硫黄島で日本軍が雨水を集めて利用するために作った貯水槽に取り付けられていたものだったという事実は、その対比は残酷だな、その写真が有名になり今でも見られているから尚更。