心臓に毛が生えている理由

心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
プラハソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が、鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。


 米原さんのエッセイを読むのは久々だ。米原さんの著作で読みたいと思うようなものは大体読んでしまったから、最近読んでいなかったが、この本に「『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を書いた理由」というエッセイが入っているということを知り、それを目当てに購入。
 最初のエッセイで、以前はヨーロッパの格式のあるレストランでは、『ギャルソンは各々カフェから一定のテーブルを利用して商売する権利を買っているんだ。客の注文に応じて、カフェから飲み物を買う。それを客に売った差額が、ギャルソンの取り分になる。』(P12)というような形式であったというのは知らなかった、たぶん。既読した米原さんのエッセイで以前見たことがあるが忘れている可能性も否めないから確信を持ってはいえないけど。しっかし、そうした現状から見るとずいぶん風変わりに思える風習がどうやって形成されたのか少し気になるな。
 女囚たちがラーゲリにおいて、それぞれの記憶の中にある本を越えに出して補い合って楽しんだことで、生命力をとりもどしていった、というエピソードが実際にあったとは物語の力というのは思ったよりもずっと凄いものなのだな。
 日本語はヨーロッパ系の言葉よりも同じ情報を伝達するのに時間や文字数が多くかかる、ということは知っていたが、『すでに四半世紀前に清水幾太郎も『日本語の技術』の中で「日本の小学校で四〇分の授業で伝達しうる情報量は、アメリカの小学校で同じ四〇分の授業で伝達しうる情報量の半分から三分の一」と指摘している。』(P127)というように、授業で伝達される情報量という指摘は考えたことがなかったものなので、目からウロコだった。
 70年代にエストニアとロシアとの国境沿いのチュドという湖のある島で実験が行われ、野生や動物園育ち、オランウータンやチンパンジーなど、さまざまな猿の大群が放たれたた、その全く馴染みのない環境で猿たちは一匹たりとも有毒だったり食用に適さない茸、木の実、昆虫、小動物に一切口にしなかった。猿は教えられずとも毒の有無や食用に適するかを判別できる、というのは面白いし興味深い。……と思ったのだが、こうして内容を打ち込んでいるうちに、何匹も一斉に放して一匹ずつ観察できるわけもないのに、一匹たりとも、といっているといるのは怪しく、本当にあった実験なのか疑問に思えてきたが、実際あったのかなあ、どうなんだろな?
 『ある日、別の本でロシアは異教徒のトルコ系民族を支配するのに、自分たちと同じキリスト教正教会アルメニア人に任せていたという記述に巡り合った。』(P160)というのを見て、ロシアも英国的な(?)他の民族に実際に支配を履行するという支配法をしていたんだ、ということを知る。
 米原さんが子ども時代チェコにいた頃、学校の図書室の本を返すときに、その本がどういうものか説明させる、ドラゴン・アレクサンドラと呼ばれる人がいて、毎回その人に説明していたら、ロシア語の表現の幅や奥行きが広がったというエピソードはいいね。やっぱり、そうやってどういう内容かをかいつまんで説明できるようになるには、こうして他人に説明するということを意識してやらねばならぬのだろうな、僕はブログ書いていても単に感想や、ある箇所への自分の反応、あるいは抜粋するにとどまっていて、そうした内容をかいつまんでその本を知らない人に説明しようという意識がない、というか苦手意識を持っているから、アマゾンの内容紹介を引用してきて、それですませてしまい、そういうことはいつもやらずにすませているから、いつまでたってもそういう文章を書くことができなんだなあ。そういう技術はいずれ、というか今すぐにでも、向上させなければならないものだとはわかっているんだけど、全然本の内容を説明する文章を作る練習ができていないなあ。
 「『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を書いた理由」、お目当てのものだけど3ページか。アーニャの発言へ、日本の優秀なテレビウーマンや視聴者は納得や感動をしたが、リッツァやヤスミンカは「胸くそ悪くてアーニャの発言のところでスイッチを切ったわ」という、その2つの反応の差異は、日本人の考えるグローバル化と本来の国際化の間の大きな溝にあるというのはなるほど、日本人はグローバル化というのはほぼ無条件によいことだという感覚がある(その礼賛に違和感を覚えてもグローバル化に強い疑念を持ったり反対したりするのははばかられる空気が形成されている)から、そこらへんの妄想的な観念上のグローバル化と現実の国際化とのギャップが反応の違いに現れているのかね。2人は社会主義国家が崩壊して国際化したことでマイナス面を被った現実を見ている人たちだから、甘い幻想は抱いていないだろうし。
 それと、米原さんが「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を書くきっかけになった、テレビ番組の『世界・わが心の旅』で再会した人3人って元からあの3人って決め打ちしていたわけでなく、友達6人を選んで、その内の3人に会うことができたというものだったのか。