戦前の生活

内容(「BOOK」データベースより)
阿部定は国民的アイドルだった」「遊園地にはジェットコースターがあった」「海外旅行ブームもあった」「公共事業と税金の無駄遣いが問題になっていた」「青少年犯罪が多発していた」…。学校の歴史の授業では教えてくれない戦前日本の“リアル”な日常生活を、62のトピックで楽しく紹介。意外に身近だけれど、不思議が満載の世界へようこそ。


 大正ロマン・昭和モダンの時代の話が読みたいとしばらく前からずっと思っていた(個人的には、この時代を舞台にして日常的なことを描いているようなライトノベルとか小説があったら是非読みたい!と思っている)から、その時代の生活のディテールを知るために読んだ。まあ、そうはいっても勉強ということでは全くなくて、この時代の生活についての話は興味を持っていたし楽しめると思っていたし読みやすそうだから読んでみようかと思ったのです。
 阿部定、裕福な家に生まれたが、強姦されたあと自暴自棄になり素行が悪くなり、女中に出すなどして改新させようとしたが、それでも素行が収まらなかったため、「最終的には遊郭に売ってしま」った。裕福な家でも息女の素行が悪ければ、遊郭に売ってしまう、というようなことが行われていたことにはすごい衝撃を受けた。現在の倫理・道徳的には到底納得しえない両親の行動であるが、当時としてはこういう両親がどう捉えられていたのか知りたい。もしもこれが当然と受け入れられていたのなら想定よりもずっと現代と隔たっていると感じるのだが、だってもし息女の素行が悪いことが家の不名誉に思われるにしても、それなら遊郭に売るという選択をするというのは、今の感覚では遊郭に売るほうが比べ物にならないほど家の不名誉だし悪い行為だと感じるから、当時は前者の方がまだましと思われていたのだとすると、人権が軽視されるにも程があるじゃないか。
 戦前は酒税が租税収入は一億円あり、租税収入の一位か二位を占めており、陸軍・海軍の年間費用がほぼ賄えるほどだったというのは、酒税がそんな莫大な額の税収だったというのは甚だ意外だった。だから、庶民は密造に励み、東北地方では密売酒のメッカとなっていたため、税務省の密造取り締まり部隊が作られ、それが現在のマルサの原型となったというのも予想外のつながりだ。それと、サラリーマン家庭でもどぶろくが密造されていたということが向田邦子のエッセイ「父の詫び状」にも書かれていると紹介されているが、その「父の詫び状」というエッセイは『戦前の日本の家庭生活の様子が細かく描かれている。』(P21)ということなので、その本を読みたくなってきた。
 東京音頭、レコード会社の大掛かりな販売戦略により大ヒットした、というのは現在ではこういうジャンルの音楽が音楽の会社によってプッシュされることは考えにくいから、そういう意味でも意外だった。
 「正義の味方」という言葉が使われたのは、紙芝居の黄金バットで使われたのが最初というのは知らなかったが、戦前という時期に作られた造語だというのは案外古いな「正義の味方」
 少女歌劇団は特に女性ファンが多いというわけではなかったが、少女歌劇団に男役が登場してから、少女歌劇団に女性ファンが増えた。しかし、この時代にも現代にもいそうなちょっと尋常ではないような熱狂的なファンというものはいたのだね。
 戦前にもジャズが流行していたというのは知っていたけれど、単に聞くだけでなく日本においてもジャズ・バンドが結成されていたというのは知らなかった、まあ、よく考えれば流行になったのだから自分たちでもやろうという人がでてくるのは当然なのだが、今まではそこまで思い至らなかった。
 家父長制であったため、恋愛結婚が難しく心中事件が多発していた。それと同時にこの戸主制度のおかげで戦前は浮浪者が比較的少なかった、家父長制というものは通常マイナスの部分しか説明されないから、戸主制度のおかげで浮浪者が比較的少なかった(東京での浮浪者の数は現在の1~2割だった)というようなことは初めて知った。
 戦前の出生率は1915~24年で5.2人、1925~34年で4.6人、1935~44年で3.2人と、軍国主義がやかましくなった昭和になってから出生率が低下しているということは意外だった。明治に堕胎が罪になったから出生率が増え、昭和に入ってから避妊の方法が格段に進歩したため出生率が減ったというのは、軍国主義とは何も関係のない事情によって出生率が変わったというのは、そらいくら宣伝されても経済的問題があるから、そう単純にそれならもっと子どもを作ろうとは考えないよね、と納得がいった。
 食事については、酢は江戸時代には関東で流行していたが明治になって全国に普及したという、案外全国普及が遅かったというのはちょいと驚き。あと、昭和初期には刑務所でもカレーが出ていたほど一般的になっていたというのも意外。
 明治32年に年賀郵便が開始されると年賀状が大流行したが、それまでは世話になっている人などには正月に直接挨拶しに行くのが恒例となっていたが、年賀状で簡素に済まされるようになった。メールでの年始の挨拶も、当初の年賀状と同様に儀礼を簡素化したもので、時代を減るごとに面倒な儀礼は簡素化されていくものとの指摘は首肯できる。それに、直接の挨拶から年賀状に変わったことに比べれば、年賀状からメールに変わったことなんてのは実に微々たる変化だと思えるしね。
 戦前の子どもがナイフで刺す事件が多いことで、ナイフを持ち歩く小学生が多かったことがわかる。そこから当時の小学生の凶暴性を見ているが、まあ昔の子どもが純朴だというのがファンタジーであるというのは当然のことだけど、ナイフを持ち歩くのは鉛筆削りとして持っていたというのもあるんじゃないの、まあそれを使って危害を加えたことを弁護する気はさらさらないけど一応書いとく。
 学生たちのストライキは戦前からかなりあったというのは意外だ、まあ、1校規模のものばかりなようだし、戦後の学生運動のような思想性は薄いストライキではあるが。
 高校は全国に35校しかなく高校に入れるのは適齢人口の1%で、高校の定員と帝大の定員はほぼ同数だったので、高校を卒業すればほぼどこかの帝大に入れたというの知らなかった。それじゃあ、当時は高校に入った段階で相当なエリートだったんだな。
 駄菓子屋、衛生環境が良くなかった。戦前は抗生物質とかがなかったため、ちょっとした病気で死ぬことが多く、昭和10年代の死亡率の三位が胃腸炎だった、というのは驚いた。だから、当時の親が駄菓子屋での買い食いを禁じていたというのは、それは納得のいく理由だ。
 戦前は満州旅行がブームになり、1924には満州に言った観光客が1万人を超えて、1933~35まで団体旅行客だけでも年間1万5000〜2万人の観光客が満州に行っていたというのは思いがけないことだった。
 『昭和五年(一九三〇)年の警視庁の調査によると、サーカスなどの興行団体にいた少年少女は三八七名もいたという。その中には、親から売られただけでなく、誘拐されてサーカスに売られた子供もいたと推測されている。』(P200)誘拐されてサーカスに、というのがまるっきりフィクションではなかった、ということには驚いた。