折れた竜骨 上

内容(「BOOK」データベースより)
ロンドンから出帆し、北海を三日も進んだあたりに浮かぶソロン諸島。その領主を父に持つアミーナは、放浪の旅を続ける騎士ファルク・フィッツジョンと、その従士の少年ニコラに出会う。ファルクはアミーナの父に、御身は恐るべき魔術の使い手である暗殺騎士に命を狙われている、と告げた…。いま最も注目を集める俊英が渾身の力で放ち絶賛を浴びた、魔術と剣と謎解きの巨編!第64回日本推理作家協会賞受賞作。

 単行本で出たときから気になっていた米澤さんの魔法が出てくるミステリーなのだが、読み始めるまで少し時間が経ってしまったが、読み始めてみると驚くほど読みやすく、そして面白い。
 12世紀末のイギリスの孤島が舞台。ファンタジー的な中世ではなく、リアリティをもった中世の世界観で描かれているので冒頭からわくわくする。
 暗殺騎士を追ってソロンにやってきた、聖アンブロジウス病院兄弟団の騎士ファルク、アミーナと初対面の時、近くの兵士の反応で彼女の領主の娘という名乗りが偽りでないことを確かめるというのは、咄嗟のことだったのにそこまで視野を広く細かく見ることができているのはすごいわ。しかしファルク、なかなか非の打ちどころのない人物だなあ、だからこそ語り手とは接点のない探偵役ではあるが全幅の信頼をおくことが出来る。
 『ソロンではやはり釣ったばかりのニシンの方がずっと安いし人気もある。』(P31)というのに、商人たちがわざわざバルト海から塩漬けニシンを運んでくるのは何でだろう、採算の取れないものを商人が詰め込んでくるはずものないし理由はあるんだろうけど、ヨーロッパの中世に詳しければこの辺の事情はわかるのかしら。
 そしてアミーナが『海の向こうから来るものはたいてい好きだ。/それが遥か当方から来た自信ありげで謎めいた「聖アンブロジウス病院兄弟団の騎士」だったら、実に申し分ない』(P34)というモノローグは、娯楽が乏しい中世での変わったものへの好奇心の強さと普段の生活のニュースのなさが如実にあらわされているように感じるから好き。彼女の父も『それはソロン島領主として知っておきたいことでもあっただろう。けれどわたしには、父が単にそれを知りたいのだということもわかっていた。』(P72)といように、同じく好奇心が強いようだしね。しかし彼女の父ローレントは領主であって立派な人物に見えるのに、文盲だということに驚き!そして「識字者」(リテラトウス)という言葉が、ある種の称号みたくなっていることからも、中世では文を読む人が少なかったことがよくわかって雰囲気が出ていいね。
 ドイツ不自由民騎士(ミニステリアーレ)、なかなか面白い名称だから、どういう人たちだろうとググってみて、wikiを見たら「下級騎士・従士・家人などと訳され、日本の封建社会でいう郎党にほぼ相当する。一般的には「家士」の語を当てることが多い。」とのこと、説明読むと、一言で説明しづらいが、自らの確固とした土地がなく、主人に従属している騎士たちのことか。「やる夫 青い血」で言えば、王直属の王都に住む騎士たちとか代官とかみたいな。
 トーステン、わざわざ20年も塔に幽閉しているのはなぜかと思ったら不死なのね。しかし「食べる喜びも呑む喜びも奪われている」し老けないのであれば、塔から出てソロン諸島を動き回れるようになったとしても、わずらわしい排斥ないし詮索があることは必須だから、まあ塔から出すことを提案されてもあまり魅力的ではないよね、まあ、領主としてはそれが最大限の譲歩だということも彼はわかっていると思うけど。
 しかしこの作品での魔法がどう使われるのかを思っていたら、鑑識みたいなことをしていたり、敵が使う洗脳の技である「強いられた信条」もあるが、普通のミステリーと大きな相違点があるわけでもなく、あったとしても「強いられた信条」のように、そのときそのときでそうした魔術について説明がされるし、そんな数多の魔術のルールについて覚えなきゃいけないというわけでもないから、意外と普通に推理することもできそうだ。まあ、やらないけどね。
 コンラート、騎士なのにアミーナのことを「お譲ちゃん」(P186)といっているのは、ん?と思ったが、そのあと彼がどういう人物であるかを知り、そうした言葉遣いに納得した。まあ、部下も部下だから、それを知る前でもそんなに違和感は覚えなかったけど。
 公示人がトランペットを吹いて人を集めて、情報を通達しているが、トランペットというとジャズとかのイメージが強く、近現代のものという印象があったので、12世紀に既にトランペットがあり、公示人が仕事に使うくらいには普及していたというのは驚き。
 家令のロスエア、平時にはいまいち頼りにならなくても、こうした緊急時においてはしっかりと役に立つというのは素敵だ。
 父が死に、兄アダムは頼りにならず、妹であるアミーナのことにそんなに注力しないだろうし、アミーナが幸福になるような縁談を持ってくることはないだろうから、一番いい選択肢だった良縁なところへ嫁ぐ選択肢が消え、あとは兄が持ってくる上手くいくかが博打のような結婚か、エイルウィン家の女主人として兄嫁と鍵の権利を争いながら生きるか、修道院に入るかという選択しかないというのは、中世では良家の人間で父の死後直ぐに自信の選択肢が限られていることをはっきりと認識できるような頭のよい人でもこんなにも選択の余地は少ないもの何だねえ。
 それからニコラの「僕は暗殺騎士に貸しがある。そいつだけはどうにも取り立てる必要がありますね!」という台詞は悲しい背景があっても、力強く前向きな言葉だ。
 上巻は、最後に小ソロンとソロンへの行き来の方法をファルクが解明し、呪われたデーン人が密室から脱出したということがファルクと読者に明かされ終わり、そして下巻へと続く。