翔ぶが如く 8

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
明治十年二月十七日、薩軍は鹿児島を出発、熊本城めざして進軍する。西郷隆盛にとって妻子との永別の日であった。迎える熊本鎮台司令長官谷干城は篭城を決意、援軍到着を待った。戦闘は開始された。「熊本城など青竹一本でたたき割る」勢いの薩軍に、綿密な作戦など存在しなかった。圧倒的な士気で城を攻めたてた。

 いよいよ西南戦争突入!ここらの歴史は知らないことばかりだから、感想というか反応も多めになった。一応「翔ぶが如く」は最後の巻まで購入したのだけど、最後まで読み終えるのはいつになるだろうか。
 桐野は鹿児島市内に家を持たず、住まいはシラス台地の開拓小屋のみと陸軍少将であったのに、そして幕末は人斬りで名をはせた人間であるのに、その暮らしが書生的なものだったというのは意外だ。
 兵を挙げることが決まった後、桐野や篠原が最終決定者となっていたが、彼らは『西郷に相談したり、裁断を仰ごうとする様子はすこしもなかった』(P11)ということや、彼らにとっても西郷は話しにくい相手であったというのは少し意外だ。
 西郷『幕末戊辰にかけてかれらに生死の境いをくぐらせたという借りの意識が休(や)めよとはいいがたくさせたのかもしれなかった。』(P13)というのは、今村大将がかつての部下相手に騙されるのに頓着せず援助をしていたので、相手の話を確かめてから援助したほうがと助言された時に『「それは、私にもわかっています」今村は微笑を浮かべて答えたという。「だが、戦争中、私は多くの部下を死地へ投じた身です。だから戦争がすんだ後は、生きているかぎり、黙って旧部下にだまされてゆかねば……」』(「責任 ラバウルの将軍今村均」P516)という返答をしたというようなエピソードを連想した。
 この時期私学校本部は、中立の立場の人間などをも動員(徴兵のようなことを)できるかつての藩庁のような強権を持っていた。
 勝は西郷が勝つことを希望するあまり、結果論ではあるがかなり誤った推測をサトウに話しているなあ。かつて(幕末)の西郷が蜂起したというのであれば、あるいはその推測は当たったかもしれないけどね、今の置物同然の西郷で、しかも輔弼する人間が壮士タイプの人間ではね。
 県令大山は、詭計により西郷は蜂起していないと政府に思い込ませることに成功して、薩軍の初動における功は大きい、というのはへえ。大久保や岩倉、さらに木戸らが騙されている中、川路は的確ではあるものの語気が強く、『むしろ川路が刺客を送らなかったほうが不思議と思えるほど』(P45)というのは予断だと思う一方、それなら大久保関与は怪しいとは思うが彼単独で送ったのかも、という気がしないでもない。そう思うと海老原穆をそうした時期に捕らえて書類を押収した、という行為も怪しく思えるね。また、大山は県庁の金をそっくりそのまま西郷らに供出しているが、それは、島津久光の内意を受けてしたものだというのは、知らなかった。西南戦争中に久光が気分的には西郷を応援していたのは知っていたが、何か行動していたのかは全く知らなかったので何もしていなかったのかなと思っていたが、表立って応援することはできないけど、一応さりげなく裏で意向を県令の大山に示して資金提供をさせてはいるのだね。
 山県は冷静に西郷が反乱軍に入っていると冷静に予測、こうした嫌な状況のときに願望を交えずに悲観的、客観的に考えられることは才能だね。軍人としては、そういう部分が必要なのだけど、後の時代の軍は、……ねぇ。
 山県、薩軍の動きを1大阪ないし東京に強襲、2長崎や熊本鎮台を襲い九州を制圧した後中央に出る、3鹿児島に割拠して全国の動揺を誘い時期を待つ、という3策のいずれかに出るだろうと推察し意見書を出した、戦いがわかっているおのならいずれかに出るだろうと推量できるものだったが、実際には2の九州全土を攻略するという規模の作戦ではなく、熊本鎮台のみに執着するという愚かな行為をした。山県は後に、もし薩軍が三策のいずれかでもとっていたら、勝敗はどうなっていたかわからないと回想している。
 中原らの口供書が取られはじめたのは2/5からで、内部の士気を挙げ、挙兵の名を得るためためにその口供書を必要としていたが、2/3、4日にすでに決起することは決定していたため。西郷暗殺の計画が口供によって明らかにされたため、私学校が憤激し、決起したというのは誤りであるようだ。その前からトップの人らが、刺客が来たことを問題として、決起すべきかどうかについて考えた結果、最終的に決起に至ったということで、一般の私学校生(下の憤激)によって決起が決まったというわけではないということかな。日付とか覚えていないから多分だけど。
 しかし鹿児島を空にして出発するというのは、日本史とか勉強しているときには考えたことなかったが、改めて考えると明らかにおかしいよね。しかも海軍大輔川村が西郷と仲がいいから艦隊を鹿児島にはいえないだろう、という希望的観測が鹿児島で訛伝として言われていたということは、西郷さえたてば勝ったも同然という気分が醸造されていて、最強の薩摩の軍勢が道中の敵を一当てで蹴散らしながら進んでいくのだから、そこまで手が回るまい、そしてもし来襲しても県下の人間が抵抗している間に政府は瓦解して薩摩が天下を握っているだろうというような、そういう楽観的な観測が城下に満ち満ちていたから、トップの連中も鹿児島に軍の手当てをしなかったのかねえ。
 サトウが西郷の通った道を一日遅れで付いていったときに、徴発されていて替えの人夫がいなかったため1人で難所を越えなければならず、越えても大砲を運搬する人夫で一杯で宿が見つからず難渋していたが、そんな疲れきったサトウを見かねた魚屋が義侠心でサトウの宿探しに走り回って小間物屋に話をつけて、サトウが広く清潔な部屋と炊き立ての飯と汁のもてなしを受けられたというエピソードは好きだな。
 神風連の乱のとき、鎮台兵に脱走が相次いだようなので、そういう話を聞くと当時鎮台兵があなどられるのも栓のないことではなかったようだ、単なる士族の平民に対する侮りとかではなくてね。そして、鎮台は熊本城下に味方してくれるようなものがいないという、土地のメリットが薄いのも辛いねえ。
 薩軍未発の状況で兵を動かして、不平士族の反発を買いたくないから、大久保はこのとき一軒情報に鈍感に見えるような態度と処置を取っていたというのはなるほどなあ。そして谷の籠城策は、おそらく山県とも気脈を通じてやったもの。しかし、薩摩蜂起の時のための籠城の準備さえ、挑発と思われないように密かにやったというのはいかに当時の政府が国内においても磐石なものといえないものだったということがよくわかる。薩軍の熊本入りが近いと察知して、米を買い入れるが謎の出火によって焼けてしまった。しかし、その消失によって防御時の火災のリスクが減り、士気も高まったという怪我の功名もあった。しかし焼けた兵糧を短期間で再び集めるために掠奪に近いことをやっていたようだが。
 薩摩出身で鎮台の幹部である樺山を、信頼すると決めた以上、県令大山の専使を称する人間を彼にまかせて、信頼していることを表わしたというのは、内部で疑っていたらあっという間に対抗できないといった事情があるにせよ、中々の器量があるなあ。しかし、樺山は自らが本気で薩軍と戦う証を示すために、本来必要のない作戦を決行し自らが指揮しようとして、まわりも樺山のためにそれを認めたというのはなんか中世的であるなあ、しかしその強襲作戦も鎮台兵が緊張のあまり敵が見えないのに引き金を続けざまに引いてしまったり、その銃声を聞いて突撃してきた薩摩人の威勢にびびって背走してしまったという散々な結果に終わる。
 地元のあらゆる階層の人間に神人的な個人崇拝を受けたというのは加藤清正と西郷以外はいない!その土地から出たわけでもないのに、清正がそんなに熊本の人間から愛されているとは知らなかった。そして細川家は地元民を懐柔するため、清正に並々ならぬ敬意を払っていて、清正時代の貯めた兵糧庫でさえも、細川時代に手をつけなかったというのだから凄いわあ。
 薩摩、戊辰戦争では砲兵の運用が巧みだったのに、西南戦争の段階になると軽視していた、というのはどうしてそうなったんだ。いくら兵の個々人が精強であっても小銃と剣で相手の防御の拠点を落とすのは無謀だ。しかし補給をまったく考えておらず、その日の夕食をどうとるかすら決めていなかったというのは呆然としてしまうな。
 薩摩の野村が政府軍を九州に上陸させないため、熊本には抑えとして先発の隊を残して、小倉に北上すべきとの策を献策したときには既に政府軍は博多湾に上陸していたとはその動員スピードは素晴らしく、また補給も山県の性格的があり後の日本軍を思えば珍しくきっちりしていたというのもいいし、そうした山県の事務運営能力は頼もしいわ。それと弾不足をしきりに訴える現場に、やたらに弾を消費することが士族軍へ対抗できる方法と思っていたので苦情を言わなかったのもいいね、やはり山県はこうした仕事をしているときが一番輝いているなあ。しかし、その策をとるかで方針がわれたとき、西郷にどちらがよいか尋ねた結果、折衷案を提案され、そのためにことごとく戦機を逸し続けたというのは、この時期の西郷は軍事的にも政治的にも本当にダメダメよな。しかし、薩軍のなかで兵略に通じているのは熊本に拘泥しない策を出した野村と西郷の末の弟である小兵衛が双璧だった、小兵衛って西郷の弟だからではなく(風貌や性格も西郷と最もよく似ていたようだが)普通に有能な人間だったのね。まあ、高瀬の戦いで死んでしまったけれど。
 しかし乃木(後の大将)は今巻では負けまくりで、いいとこないなあ。
 薩人、「死を恐れるか」といえば異論を封じることができてしまうのは、こういった戦略や戦術のことが精神論で封じられてしまうというのはよくない風習だし、後のグダグダになっていった日本軍を連想するわ。
 薩軍、たいていのことは大隊長が命令せず小隊長同士の合議だったり、戦闘中でそれぞれが勝手に考えて救援したり戦火を拡大させたりという風に動き、細かい指示は出さないことで裁量の幅を広く取るという以前からの藩風なのだろうが、外観からはあたかも一糸乱れず一令のもとに動いているように見えるというのが凄いわ。そう考えると、戦国時代に強かったのは単に島津家の人間が将として優れていただけではなく、その下の小隊長級の連中も優れていたというのもあるのかな。
 薩軍は継続して全般の作戦を考える参謀がいなかったというのが、大きなプランを描けずに敗れた原因の一つらしいが、そう考えると参謀って必要なのね、第二次世界大戦のときの印象からいまいち好印象を持っていなかったのだが。
 西郷、自軍の兵士たちにも会わせず、暗殺対策なのか点々と移動させていたというのは、捕虜の如き有様だな。
 高瀬の戦いが、西南戦争における関ヶ原になったと書かれているが、その戦いの名前自体知らなかったのでしっかり覚えておこう。しかし、最初の戦闘の目的は熊本士族隊(薩軍に協力している)が、士気を維持するために戦闘をしたのがはじまりというのは、たしかに「壮士的」だなあ。しかし、篠原軍は他の2隊が最もさかんに戦闘しているときに弾が切れたから戦線を離脱するって、おいおい、少将よ。
 旧制高校の校風や寮制は、第一高等中学が創設されたときの校長、幹事、舎監がいずれも熊本藩時習館の出身だったため、時習館の伝統が強く移植されたという説は知らなかったが、旧制高校がどんなところだったのかよく知らないから、時習館がどんなところだったのかのイメージも付かないなあ(苦笑)。
 当時は逃げるときに銃器を捨てても罪にならず、あとで補給を受ければおしまいというのはいいなあ。後のようにやたらと小銃などの道具を高く置くのはいかがなものかと思うし、しかも当時世界的に時代遅れになっていたようなものを、ね。
 この時期の政府軍最強部隊が近衛軍だったというのは意外、なんか今までは竹橋事件だったかで鎮圧されていたイメージしかなかったからさあ。
 戸長、やたらと金を徴収する様を見ると、こういうのがラノベとかでのテンプレ的なファンタジーの貴族みたいな横暴さね。まあ、そうやって金をたかる人というのは土地と縁がない人間くらいだという感を強くするし、平安時代の受領(「受領は倒るる所に土を掴め」)とかがなんとなく連想される。西南戦争中にそうした戸長制への反発で、一部に打ち壊しが起こっていたようだが、作者が指摘しているように、そのエネルギーをまとめて政府を牽制していれば政府は困らせることができたというのは容易に想像がつくな。