翔ぶが如く 9

新装版 翔ぶが如く (9) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (9) (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
熊本をめざして進軍する政府軍を薩軍田原坂で迎えた。ここで十数日間の激しい攻防戦が続くのである。薩軍は強かった。すさまじい士気に圧倒される政府軍は惨敗を続けた。しかし陸続と大軍を繰り出す政府軍に対し、篠原国幹以下多数の兵を失った薩軍は、銃弾の不足にも悩まされる。薩軍はついに田原坂から後退した…。

 いよいよ次でラスト!
 後に社会主義者となり、幸徳秋水の同士となり、1921年にはモスクワに入りコミンテルンの常任執行委員になった片山潜は、西南戦争当時は安達清一郎の書生だったが、その当時安達に西郷の密使が来たときに、片山は「西郷先生のために働ける」ことに興奮して同士をあつめるべく奔走し始めたが、安達の上司は大久保派だったので、安達と話し合い挙兵を思いとどまらせた。それから、安達が片山に決起は駄目になったことを告げると、片山は落胆して3日間飯も食わず部屋にこもりきりになった。というような、後の社会主義者が当時西郷へ非常に強い敬意を持っていたという事実はとても意外に感じる。
 そうした安達のような小物にまで決起を促しておきながら、土佐に対して何も連絡もしなかったというのは、西郷は大度量といわれるがそれは敵に対してそうであって、同藩のものや同調の集団に対してはときに実に狭量だった。それに西郷は他郷の集団への警戒心の強さを残しており、それらは封建時代人であるが故のことであっても、西郷はどうもイメージほどには器量が大きくはなさそうだ。
 陸奥宗光、と左派の人間が企画した当時大臣らを暗殺する企てに関わっており、その暗殺名簿ができたとき、1人重要な人物が落ちているとして「伊藤博文」の名を書き入れた。それなのに後に伊藤内閣の下で外務大臣になったというのは凄い、伊藤はそのエピソードをよく知っていたのに、何も言わなかったというのは流石大政治家と思える、使えるものは使うという度量の広さだ、と感心する。また、大久保も陸奥がその企てに関わっていたことを知りながら使っていて、大久保が暗殺されたあと、大久保が自室に保管していた(大江が検挙されたときに押収された)証拠書類が発見されて、そのときはじめて西南戦争時の暗殺計画で陸奥が逮捕されたというのだから、明治の大政治家は使える人は使うというわりきりがきちんとしているし、肝が太いなあ。
 ある鎮台兵の従軍期間の日記があり、その日記の文章には冗漫さがなく簡潔直截で、文法や措辞に少しの誤りもない。彼らを百姓兵と士族たちが侮っているが、その日記を書いた鎮台兵は江戸期的な初等教育を受けたきりで、特に学問に優れているわけでもないごく普通の人がそんな文章をかけたというのだから、このエピソードでは江戸時代には教養が一般民衆にまで広範に行き届いていたということがよくわかるし、鎮台兵が無学愚鈍というのはまったくの誤りだと知れる。
 薩摩人、逃げる行為も戦闘行為の1つと割りきって、変に罪悪感を持たずに、形勢が不利な戦場に長くとどまらない、ただ一方でそうやって逃げると当然部隊に恐慌が生まれ追撃されるリスクが高まるので、それは薩摩の特徴ではあるんだろうけど、長所なのか短所なのかはわからないなあ。
 幕末の志士グループの名士で、軍人として有能だった太田市之進(維新後まもなく病死)、乃木の従兄、が薩摩の黒田に乃木の就職を頼んだので、黒田は乃木を陸軍に入れた。太田の死後、転生の軍人という評判の高い福原が乃木の保護者役になっていたが、彼も西南戦争で死亡した。乃木の人生を考えると、こうした保護者役の人が後々まで残っていれば、あんなに分不相応にまつりあげられることもなかったんだろうし、そのほうが乃木にとっても良かったことだったことだろう、と思わずにはいられないな。
 田原坂の戦いでは、薩摩軍はしっかりと陣地を固めていて、要塞攻略みたいな戦いの様相だったというのは、字面からは想像つかなかったので意外だった。
 西南戦争では、新規に警察官が大規模に募集された。それで武勇に優れ、また薩摩に怨恨を持つ会津藩人が採用され、戦場へと送り込まれた、というのは恨みを、同じく敵だった新政府に利用されたというのはなにかやるせない思いを覚える。新政府は、佐川官兵衛のような有能な会津人をスカウトして、その周りに集っている人間ごと警察として雇おうとした(親切とかではなく一塊の集団として戦場へ送れるようにだろうが)、それを佐川が受けたのは失業して困っていた若い士族に受けてくれと頼まれたからだというのは世知辛い。しかもそうして新政府側から誘いをかけておきながら、佐川の能力に比べてかなり低い階級の職しか用意しなかったというのはかなり失礼なことだなあ。
 谷は「自分には力がないから、あなたを交換に推挙することはできないが」といって、山川浩に、低い職だが、陸軍の職につくことをすすめ、山川は東京へ出て来る会津の書生たちの世話をするために、その申し出を受けた。ちなみに、この西南戦争の時期に、山川家の書生となっていた人たちのうちの1人に「ある明治人の記録」の柴五郎がいる!あと山川浩の「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が/提(さ)げ佩(は)く太刀の利(と)きか鈍きか」という歌はいいなあ、好きだなあ。
 この時代に人望家が大きな存在感をもっていたのは、藩という封建組織が雲散霧消し、官にも違和感のみを感じてのがれたくなっていたためであり、江戸時代には世間的価値を持たなかった人望家がこの時代重みを持って登場したのは、そういう落ち着かない時代に多くの人に方向や居場所を与えてくれる人を多くの人が求めていたからである。
 『田原坂の攻防戦というのは、同時代の世界戦史のなかで、激戦という点で類を見ない。小銃弾の使用量のけたはずれの大きさも、機関銃の出現以前の戦いではこの兵力規模で他と比較しようにも例がないのではないかと思える。』(P127-8)そういう風に書かれるとものすごい戦いだったのだな、と実感できるし、なんか激戦というので期待感がぐんと高まる!
 薩摩の古来からの軍事用語「差引」は指揮権を任せられた大将のことで、配下の小さな差引たちに大きな方針をあたえ、あえて細かい指示をせず彼らに任せ、責任だけ取る。こういう習慣が有効に機能して、かなり強力な軍隊となっていたようだ。西南戦争では、大方針が決められずに場当たり的に対処していたから、軍隊が強くても奮戦していても凄いと思うより、その上の無計画さを思うと切なくなるばかりだが。また当然、同様のことを政府の薩摩の人間、例えば海軍の川村なども取っていた。
 「抜刀隊」という言葉は、田原坂の塁を強襲する計画を表白し、実行した会津士族の警察官たちに山県がつけたもの。地の分にも「詩藻に乏しくない」とあるが、確かに命名センスあるな、山県。
 政府軍、逃げることに屈辱を感じず、逃げるときに銃器弾薬を置き捨てていたので、平気は大切である、と今更なことを改めて言ったり、逃げるなと強くいいたてなければならなかった。
 西南戦争時の私学校の面々、従軍を思想的に拒否する者を人民裁判にかけて斬殺していた、というような当時の鹿児島の非私学校党の人間にとっては暗雲がたちこめたような情勢だったということは知らなかった。
 大山、西郷に久光の秘かな意向で協力していたが、西郷にも特に感謝されず、久光にも自分に害が及ばないように見捨てられ、政府に引き渡されて、刑死したというのは切ないなあ。しかし、刑死の覚悟を持っていたのに悲壮さを感じさせず、飄々と政府の船に乗っていったというのはすごいな。
 薩摩でも僻地である種子島までは私学校も西郷崇拝も浸透しなかった。
 薩摩、熊本での戦況の逼迫が鹿児島で恐怖政治を生んだ。
 山県、軍政家としては鋭かったが、戦いのこととなるとそれほどの才能はなかった、そこが山県の軍人としての限界なのかな。まあ、大人しく後方で前線が踏ん張れるように補給や処理をするならば彼ほど適任のものも、他にいないのだろうけど、前線にくるとなると話は別だなあ。
 西郷にかつてかわいがられた黒田や川村は西郷を逃がすために、故意に熊本に行くのを遅らせたというのにはおいおい、と突っ込みたくなる。だって「政府軍」の味方が篭城で大変な思いをしているというのに、個人的な感情で救援に行くのを遅らせたというのを見ると、明治とはいえまだまだ前時代的だなあと思う。しかし、そんな中軍令違反をしてでも親交深い谷を助けるべく熊本へ行った山川浩は格好いい、まあ、行ってみたら既に薩摩が撤退しつつあるときだったし、よく考えれば感情を優先させたということではどちらも変わらないかもしれないけど、行動の格好良さはぜんぜん違うよね(笑)。
 熊本城で篭城していた面子の中には、奥保鞏日露戦争の第二軍司令官)もいたのか。
 永山自刃の報を聞いて、桐野が「わが軍はかけがえのない勇将をうしなった」といったというエピソードからはもう実質彼がトップにいることがわかるなあ(実際、その後薩摩軍が熊本撤退後は西郷とその幕僚を無視して、別の場所で桐野が軍議を仕切っているし)、この時期には長山のほかに篠原とか他の大物もかなり倒れているしね。しかし、桐野がトップというのは、まともな作戦をちゃんと考えられるか、考えるつもりがあるのか、と思ってしまうから、絶望感がすごいなあ。
 降伏した薩摩の小部隊が、「万死を冒して前罪を償いたい」と積極的に望んで政府軍の道案内役をした。捕虜になったら、そのようなことをするのが日本古来の合戦の慣習だったので、後に日露戦争でもそのせいでしばしば作戦が齟齬したので、後に日本陸軍が捕虜になることを極度にいやしめる教育をしたのはそうした風習のため、というのは知らなかったので、へえ。