奇跡のリンゴ


奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
リンゴ栽培には農薬が不可欠。誰もが信じて疑わないその「真実」に挑んだ男がいた。農家、木村秋則。「死ぬくらいなら、バカになればいい」そう言って、醤油、牛乳、酢など、農薬に代わる「何か」を探して手を尽くす。やがて収入はなくなり、どん底生活に突入。壮絶な孤独と絶望を乗り越え、ようやく木村が辿り着いたもうひとつの「真実」とは。

 「37日間漂流」が面白かったので、石川さんが書いたノンフィクションの本を他にも読みたいと思って、調べていたら以前から読みたいと思っていたこの本が2年前に既に文庫化していたことに気づいたのでそれで早速読了した。この本を読んでからはじめて、木村秋則さんの話が映画化されたということに気づいた。
 まえがきに書いてあった、木村さんが作ったリンゴは2年経っても腐らないというエピソードを見たときに、昔の小説でかなり古いリンゴを食べているというようなシーンをたまに見かけるが、本当なんだろうとは思ってもまだどこか半信半疑だったが、この話ではじめて事実だと実感できた。
 家族が7人(義理の両親、妻、自分、娘3人)もいるのに、収入度外視で家族ごと困窮させてまで何年も続けるのは阿呆やな。実際やり遂げたことや途中でめげないその意思の堅固さはすごいけど、家族にかけた苦労が多大だから単純に尊敬する気にはなれないなあ。
 現代のリンゴは、19世紀から大きく・甘く品種改良されてきたリンゴであり、同じく19世紀に農薬も使われるようになったから、それ以前は甘い実を実らせても病害虫に弱ければそのリンゴの木は育たなかったが、農薬が出てきて以後、病害虫への耐性という制約がはずされたため、それ以前のリンゴとはまるで違う。そのため現代のリンゴ畑は農薬を散布しないと壊滅してしまう、一年農薬を使わないと収穫量が90%以上減り、それほどのダメージを受けた木は翌年花を咲かせることができなくなるから、無農薬を2年続けると収穫量がほぼ0になってしまう。
 大きく・甘い新品種のリンゴは19世紀にアメリカで続々と生み出されたが、それはアメリカ大陸に入植する人にとっては、リンゴの木は郷愁の果実である以上に、飲み水代わりのジュースやシードルの原料となる重要な果物だったから、アメリカ大陸の広範にリンゴの木が広まった。そのことが19世紀初頭から半ばにかけてアメリカではリンゴの新品種が続々と生み出されることにつながり、その新品種の苗木はヨーロッパに逆輸入され、世界的に大型リンゴのブームとなった。
 木村さんは、子供の頃おもちゃを分解して遊んでいた。その後の中高生の頃は、電気やラジオ、そしてオートバイ、特にそのエンジンに熱中した。と、ここまでを見ると、農業とは関係のない工業系の人生を歩みそうな感じだな。実際一旦、そういった会社に就職するが、一年半後に兄が自衛隊に入ったため、実家を継ぐために会社を辞め帰郷した。しかし、その後兄が思い直して帰ってきて、家を継がなくても良くなったのだが、木村は(というか、木村は奥さんの姓で、このときから木村になったわけだけど)奥さんと結婚して婿養子になって農業の道に入った。トウモロコシ畑もやっていたリンゴ狂いになる前の話で、タヌキ被害が大きかったが、出来の悪いトウモロコシを畑の端に置くようにしたら、それでタヌキの被害もなくなったという話も面白い。
 木村さん、何もしないことができないから、冬の骨休めの時期にも農業の勉強に熱心な人で、その勉強しているときに出会った福岡正信の「自然農法」という本がきっかけで、リンゴでも無農薬栽培ができないか、という思いが頭をもたげるようになった。
 しかし、木村さんが無農薬栽培を挑戦したいといって、岳父があっさりとやってみろといってくれたというのは、お父さんさんは出生した南方の島で農薬が手に入らないから無農薬で米や芋を作っていた、という経験があり、また農業について研究熱心な人だから、木村さんがやろうとしたことに理解を示してくれた。
 実際やってみると、農薬を1回しか散布しないところでも、1回も散布しないところとでは収穫に雲泥の差がでた。それなのに、何年もその挑戦を、無農薬を試すリンゴ畑の数を年々増やして、リンゴ畑の収入を限りなく0に近づけてしまうのに、家族もよく許したなあ(呆)。義父の郵便局の退職金を使い果たした、というくらいに収入が赤字になっていたのだから、義父や義母もいい加減やめさせようとはしなかったのかしら?と思ったら、無農薬栽培で失敗を繰り返し、困窮を極めている中でも木村さんを庇ったり、わずかでも家計の足しにするために、イタドリの茎からウスジロキノメイガという蛾の幼虫を集めて、釣具屋に売っていたというのだから、すごい善人だなあ。それと同時にそこまで、人を信用させる木村さんもすごいけど。実家の両親も、婿に入った彼が木村家の生活を滅茶苦茶にしていることを木村家の人々に申し訳なく思っていて、何度も父親は意見していたが、それでも息子(木村さん)は意見を変えなかったので、交わりを絶ってせめてもの誠意をみせたが、それでも息子を案じて、母は暗い夜道の中をとぼとぼと歩いて米や味噌を届けてくれていた、というのは泣かせる。
 青森は養蚕ができないから、リンゴの木の病害虫が蔓延した明治時代でも人海戦術で駆除したりして、リンゴを栽培していた。そして、大正時代に正しい農薬の使い方がされるようになり、リンゴの木の病気が防げるようになってから、農家が農薬に飛びついた。しかし、木村さんは農薬をやめたことで、明治時代の農家の苦労を改めて味わうことになった。農薬を使わないでいると、何万匹もの害虫が、リンゴの木に取り付いていたというのだから、その一事で壮絶だということがわかるが、それでも心を折らずにその後何年も無農薬をチャレンジし続けたのというのは、後に成功するということが既にわかっているけど、流石にもうやめようよ、と止めたい気分になってきてしまう。
 稲は、泥がとろとろのお汁粉のようになるのが理想というのが常識だが、同じイネ科のヒエでの実験では一番発育が良かったのは粗く耕したものだった、荒くしたほうが根が張りやすいから、最初は伸びにくいがその後は普通以上に成長する。だったり、苗の間にタイヤのチェーンを1週間おきに3、4回繰り返す(出たての芽を壊すため)だけで、水田に雑草がほとんど生えなくなったというような常識とは違う、創意工夫のエピソードは凄い面白い。 
 自分のリンゴ畑を病気と害虫の巣窟にするのは勝手でいいのかもしれないが、周囲の果樹園にまで悪影響を及ぼす危険性があるから、そのことが小さな地域のコミュニティ内で周囲との軋轢を生んでいた。
 そうやって毎年失敗を繰り返すたびに、家族に貧乏をさせていること対する罪悪感が増し、それが不機嫌につながり、貧乏よりもむしろ不機嫌さが原因で家庭の雰囲気も悪くなっていた、というのは悪循環よのお。まあ、貧乏させているのに自分が笑ったり、明るく振舞うというのは難しいことだろうけどさあ。
 結局リンゴの無農薬栽培が毎年失敗する中で、借金を抱え、水田を売ることとなり米すら満足に食べられなくなったというのは、もうなんでそこまで、とその執着、執念には戦慄すら覚える。
 生きていても迷惑をかけるだけだと絶望して、自殺するために山に入って、世界の美しさを知るというのはいい話しだな、それにその時山に入ってそこに自然に生える樹木が誰も農薬をかけていないのに害虫や病気にほとんどやられていないのを見たおかげで、土が違うのだと新たなヒントを得て意気揚々と山を降りたというのだが、そういう時に今までと違うまったく新しい視点が得られたとは面白い。しかし、一度義父が南方にいた頃雑草が生えていたほうが、作物が良く育つという体験をしていたから、雑草を抜くなといってきたというのは、そういう体験して得られたヒントも以前義父が示してはいたのね、そのときは南方の島と青森では環境が違うから、と取り合わなかったようだが、結果としては義父が正しかったのか。
 9年ぶりにリンゴの花が咲いたということは、9年も困窮の時期が続いたのか。そうやってリンゴが収穫できるようになってからもいろいろと苦労があったが、結果的に現在のように努力や苦労が実を結んだのは本当に良かった。それに、そのリンゴをぜひ食べてみたい!