翔ぶが如く 10

新装版 翔ぶが如く (10) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (10) (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
薩軍は各地を転戦の末、鹿児島へ帰った。城山に篭る薩兵は三百余人。包囲する七万の政府軍は九月二十四日早朝、総攻撃を開始する。西郷隆盛に続き、桐野利秋村田新八別府晋介薩軍幹部はそれぞれの生を閉じた。反乱士族を鎮圧した大久保利通もまた翌年、凶刃に斃れ、激動の時代は終熄したのだった。

 10巻冒頭、5月の段階で桐野が総指揮権を握っていて、村たらもそれを当然として風下に立って協力しようとしていたのは、やはり西郷の評価が各幹部の桐野評価の基準となっていたため、依然として買われていたのと前線の書く休止期間の多くは元近衛士官で、桐野を上官としていたものばかりであったため。
 政府軍は直に西郷を撃つという戦法を長州人の山県でも遠慮していて、薩人たちも好まなかったため、薩摩は撃つが西郷へは配慮するという奇妙な感覚を持っていた。
 宮崎の町における西郷の日常は、内面はともかく、元の退隠者に戻って猟へ行ったりしているというのは、一応実態は神輿でしかなくとも薩軍の大将なのにその行いはどうなんでしょ?そんな西郷の日常を他の薩人兵士たちはどう思っていたのかちょっと気になる、まあ恐らく好解釈はしているだろうけどね、たとえば豪胆だと感じていたとか、あるいは自分たちへの信頼の証だと思っていたのか。
 山口仲吾、性格は古朴という人物だが『私学校時代も講義を受けにやってきても、眠くなると帰った。空腹を覚えても、帰った。』(P18)というのは面白すぎる(笑)。エピソードもそうだけど、「帰った」を連続して使っているのと、後半では「、」を使って微妙に間を空けているのが笑える。
 薩摩軍、銃弾が不足して、弾丸は三発で後は斬り込めというのは旧日本軍の末期みたいな状況だなあ。
 熊本から敗退後にようやく、桐野はどうすべきかを考えるようになった。というのはいくらなんでも遅すぎるし、しかもそうして考えた結果は島津がかつて守護をしていた三州を守るという、どうしようもないものだし。
 野村が自分たち一隊だけでなく、薩摩軍が豊後をおさえ、その上で豊前小倉と備前長崎をおさえるという良策を献案したが、自分たち(2000人)だけが豊後に行って、主力と遮断されたら薩軍の損失といっているのに、たとえそうなってもかまわないという態度はどうなのよ、かなりの戦力を注ぎ込むのに、そんな戦力をどぶに捨てるようなはめになっても構わない、遮断されてそちら側の隊がどうなっても知らんという態度は一軍の将としてどうなのよ。
 しかし、そんな態度をとられて、本隊との連携はないに等しいのに野村の隊の活躍には目覚しいものがある。しかも政府軍も戦術能力の高い将校たちにそれぞれ大隊規模の隊を任せていて、兵も当初に比べれば強くなっているのに!ただ、あくまで、無数の戦術的郵政であり、そこで奮戦しているからといって特にそれを生かす策を本隊がやっていないのだから、ほとんど無意味であるのが泣けるが。しかし、彼らは竹田の旧城下町を占領したが、そのとき現地人の堀田、田島を手代として使っているが。油屋の子である田島は、にわかに握った権力に高揚し、非協力者を反西郷の徒として拷問をしていたらしいが、そんなことをしていたんだったら、彼は薩摩軍が竹田を去った後もう故郷にいれないだろうなあ……、と少し感傷的な気分になる。竹田では、政府側の偵察者である重岡村の分署長で十等警部の藤丸がとらえられ、拷問されたが半死半生になっても自白しなかったが、結局斬刑になったが、そのとき首を打つ役を無頼漢でかつて藤丸にとらえられたことがある男にやらせたが、何度刀を振っても頭蓋骨が斬れずなぶり殺しにされたというのは、ひどく残酷。しかし、そんな最中でも、無頼漢に斬らせている検視人の士道のなさを嘲笑していたというのは、藤丸さんの精神力には感嘆する。
 飫肥の元家老、高山伝蔵は自分の家が飫肥という小藩の家老となり100石取りになったことで「富貴栄華が極まった」と表現している、そのスケールの小ささは愛おしさを感じる。それに表現は大げさだとも思うが、言いたいことは理解できるし共感もできる。
 薩人、逃げることを特に忌避しないが逃げるときに恐慌状態になることまでは防げない、しかし潰走しても翌朝に軍議を開いたときには沈静していたというエピソードのように、戦場でわずかな期間で動揺を沈静化でき、ひきずらないのはすごいわ。
 しかし、辺見とか部隊指揮する立場なのに常に部隊の先頭に立っているが、銃が主力になってから、そういうことの有効性が薄れたのに、この段階では、まだそういう人たちは結構いそうな感じだね。
 しかし、この時期から既に暗号電報を用いていたとは知らなかった!
 尾崎三良は幕末に三条実美に仕え、その秘書として気骨と才腕を認められ、実美の子につきそいイギリスに留学していたということもあり、維新後は平民ながら維新政府で出世して従五位になった。彼の西南戦争中のエピソードで、親代わりの兄に久しぶりに会ったら、三良が出世してかつて殿様のような地位になったから、彼の居る座敷に入らず、次の間で平伏していて、こちらへといった位では入ってこずに、自ら手をとりに行くとようやく客座に入ってきたというエピソードは、当時は地位を得れば親兄弟でもそういう仰々しくみえるような扱いをするというのは興味深い。
 熊本隊もかなり強かったとは文のほうが優れていたイメージあるから意外だった。しかし、清正が尊崇されていたように、もともと文武両道的な国風でもあるのかな。
 西郷従道大山巌、用もないし戦場に来ても心が千々に乱れる思いであろうが、同時に戦場から離れた地にも落ち着いていられないような気分だったのか、軍について行き帰結を見届けようとしているその姿は痛々しさすら感じる。
 桐野は敗走し、疲労と空腹の中でも、政府軍7万に包囲された最後の城山においても、颯爽とした姿で平素と変わらぬ言動をしていたというような美質はあったが、それは1人の兵隊あるいは小部隊長とか下士官としてなら素晴らしく頼もしい人材なのだろうが、一軍の大将として必要な戦略能力はないのに、その地位にあり戦争を起こしてしまったという事実にはなんともいえない。薩摩軍やそれに協力して死んでいった人たちにとっては不運な出来事だったかもしれないが、日本にとっては全国に拡大せず最大の反乱を終えることができたという点で幸福だったと思うけど。
 『日本の軍事史上、大群がその時代の最新式の装備を充実させたというのは、織田信長の軍隊以来、この時期の太政官軍以外になく、その後にもこれほどに充実した時期はなかったのではないか』(P146)というのは泣けてくるわ。
 薩摩軍、故郷で死ぬために包囲を突破し山々を走破した、『そういう彼等の行動は、かれらが伝統として理屈や道理よりも容赦なく美のほうを選ぶ精神の習慣が強烈であったために、痛ましさをと超えて美しくもあった。』(P168)壮絶だけど美しい、消える前の最後の炎の迸りのような。
 村田新八が欧州留学の土産として西郷に買ってきた金時計を、以前から桐野は羨ましく欲しかったが、薩摩へ帰る途上で西郷は時計をなくし、桐野が探そうとしたら、拾った人に与えるといったため、興奮して探しに行こうとした。しかし、すでに拾ったものがそれを届けにきたらぜひ売ってくれと頼み込んで、ついに売ってもらって自分のものにした、というエピソードは、桐野が子供らしくて微笑ましくもあるが、死ぬ前にこれが自分のものとなって満足感を覚えていたと思うと少し切ない。
 野村、薩摩人に珍しく直言しないまでも批判が顔や態度に出るし、同僚に、戦略もろくに立てない愚行であったから至当なものであるが、嘆くような人間であるがゆえに、西郷や桐野に疎んじられた。こうした有能な人間の批判をまともに受け取らないというのが、薩摩(に限らず日本でもそうかもしれないが)の欠点だな。しかし、西郷、施設も戦略的価値も何もない山を1人で守れなんて無茶かつ無意味な命令(こんなときに限って!)で野村を捨てようとするとは酷すぎる。
 川路、自ら率いて薩摩の城山に籠もる薩摩軍と戦うことを望むとは、自分が薩摩の人間から恨まれていることを知っているだろうにすごい闘志だ。
 そして、薩摩軍の最後の戦いの城山の政府軍との人数の差が、薩摩が400弱に対して政府軍が7万(!)というのは凄まじい、それに更に平気の違いもあるから差が更に開くんだものなあ。万全を期すために、5万人以上集まってもなお攻撃に移らなかった山県、薩軍ここを死地に定めた人たちだからいいけど、そうでなければなぶり殺しでいっそ早く楽にしてあげてと思うレベル。
 古荘大尉、薩摩軍を完全に撃破するために最後の白兵戦を挑むに当たって、剛勇をうたわれ薩人に少しの同情も持っていなかったため、岩谷口から突入する中隊を率いて攻略したが、戦後勲五等に叙されたが、その後大尉から出世していないというのは、西郷を死なせた(というのも変だが)最後の一押しをした人ということで恨まれたか責任を取らされたかしたのかな、と同情していたのだが、山には薩摩軍の病院が3箇所あったが、彼らの部隊だけが彼らの生命を保護せずに、傷病兵全員を殺して更に火をかけたというのだから、それなら薩長政権下で出世しないのも仕方ないわ。
 薩摩藩、歩兵の集団機動のためにここに強い行軍力を身に付けさせていたが、「さらには歩兵を騎兵なみの速力にちかづけて突撃させる」というのが示現流の重大な要素だそうだが、なかなか頭おかしい(笑)。
 しかし、古荘隊がたった1人の桐野の狙撃による奮戦のために、攻めあぐねたとは、桐野は剣術だけでなく、銃も上手かったとはすごいなあ、本当にこの人は完璧な戦士だなあ、一軍の将としてはアレだけど。
 戦中、両軍ともに民家に惜しいって不法を働くことが奇跡的なほど少なかったが、城山の段階にいたっては互いの憎悪がむきだしになり、かなり敵を冒涜しているような挿話が様々にある。
 島田一郎、大久保を殺す4、5日前に、堂々と近日殺しに行くと宣言したりしているので、暗殺の中では潔いものだとは思うが、しかし大久保の存在が大きく、彼は日本には必要だったから、やはりどうしても憤りの気持ちが湧き上がるね。後世から見ても悪人を殺したのだとしたら、潔さもあいまって長く賞賛されたろうけど、殺したのが大久保ではね。
 しかし、大久保は西郷の死後、西郷との親密さを弁解するようにアピールしていたり、いつになく多弁であったりしたというように、精神の均衡を欠いていたのかな。
 西郷従道、兄と大久保を続けざまに亡くしたその内心は察するに余りある。大久保が死んだ報告を受け、他の大官が動転し動けなくなってしまったとき、彼はただ1人現場に行って遺体を大久保邸にまで持っていき、その夜自室に引きこもり激しく泣いた。
 そして、結局この物語ももう1人の主役である川路も大久保が死んだことで打撃を受けて、その後すぐに死んでしまった。