文明崩壊 下

文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
人類の歴史には、転げ落ちるように崩壊した社会がある一方、危機に適確に対処し、乗り越えた社会もある。問題解決に成功した社会例として、徳川幕府の育林政策で森林再生を果たした江戸時代の日本、過酷な人口制限で社会のバランスを保つティコピア島等を検証する。さらに現代の危機として、中国やオーストラリアの惨状を分析し、崩壊を免れる道をさぐる。資源、環境、人口、経済格差など複雑化する崩壊の因子を探り、現代人の目指すべき方向を呈示する。


 下巻では、持続可能な食糧生産あるいは環境保護を実践した社会を構成し存続した文明や現代の社会などを扱っている。また、そのなかで江戸時代の日本の森林管理についても書かれている。
 ニューギニアに人が住んでいることが西洋世界に知られたのは1930年代(!)になってからというのは驚いた。それに、ニューギニアは人口過密な地域だというのだからなおさら驚きだ。またニューギニアは、植物の栽培品種かを独自に成し遂げた世界で9箇所しかない中心地の1つのようで、輪作も独自に開発し、土地に適応した高度な農業技術も持っている。
 あと、ティコピア島、島のほぼ全域(急峻な絶壁がある数箇所以外)が細部まで管理され、食糧生産のために充てられているというのはすごい。
 ルワンダ虐殺、80万人いたツチ族の3/4そして、ルワンダの総人口の11%が失われたというのは、改めて数字で聞くと凄まじい規模だな。その背景には人口が増加し、土地不足となり、一日あたり1600カロリー未満(飢餓レベル以下と見なされる数値)しか摂取できない人口が、1982年には9%、そして1990年には40%(!)に上昇し、その後も上昇し、また農村部でも貧富の差が拡大していたというのだから、その不満が何らかの形で爆発するのはある意味必然だった。なので、『一九九四年の事件は、フツ族の村民同士のあいだにさえ、積年の恨みを晴らす、あるいは所有地を再編成する得意な機会を与えた……今日になっても、人口の過剰分を一掃し、利用可能な土地資源と頭数の釣り合いを取るためには、戦争が必要なのだという主張を、ルワンダ人の口から聞かされることは珍しくない』(P105)まあ、その事件を生き残ったからこそ言える、またその事件によって直接・間接に利益を得たから、正当化するために言っているということもあるだろうが。
 中国は、砂漠化での直接的な損害と、水質及び大気汚染による年間損失だけでも国内総生産の14%に相当する費用がかかっているとは驚きだ、そういう数字を見てはじめて一旦悪化した環境というのはどれだけ継続的に国に大きな害があるかということがわかり愕然とする。しかし、ルワンダの例とかを考えると、中国の1人っ子政策ってかなり良い政策だと感じる。日本はなんか自然と似たようなことになっちまっており、それが問題になっているから素直に評価しにくいが(苦笑)。
 オーストラリアは土壌生産性が低い。それにしても「川の栄養分の全てと、少なくとも海岸線に近い海の栄養分の一部は、川に流された土壌から発して、海まで運ばれる」ため、オーストラリアの河川と沿岸水域も、かなり生産性が低いというような因果関係は思いもよらなかった。
 また、オーストラリアはそのように土地の生産性が低いのに、移民してきた人たちは自らの国の農法で同じ作物を育てることに(当然ながら)拘っている、そして本来の土地の生産性に比べて土地の価値が高いということもあるため、オーストラリアの土地の生産性以上の作物や家畜を生産しようとして、過放牧や土壌浸食さらに塩性化の問題が起こっている。しかし国土の6割と水利用の8割が農業に当てられているのに、農業は国内総生産の3%未満にまで縮小し、さらに国の農業収益の約80%は農地の0.8%未満から得られたものという現実には愕然とする。その上、オーストラリアの農地の2/3(主に羊と肉牛が飼育される土地)は農場主の労働価値も入れて計算すると、農場経営者に純損失をもたらしているとは、オーストラリアといえばオージービーフの印象も強いから驚きだ。
 「共有地の悲劇」とは、『漁師がある海域で魚を獲ったり、牧夫が共有の牧草地でヒツジを放牧したりする状況』で過剰採取すれば資源の枯渇や消滅の恐れがあり、消費者すべてが損害を被るため、自制心を働かせ過剰採取しないことが共通の利益になるが、『各消費者がどれだけ採取できるかに関する有効な規制がないかぎり、「わたしがあの魚を獲らなくても、あるいはヒツジにあの草を食わせなくてもどうせほかの漁師あるいは牧夫がそうするのだから、自分が乱獲や過放牧を控える意味などない」と各消費者が考えるのは、理屈として正しいと言える。したがって、理屈にかなった行動とは、別の消費者に先んじての採取ということになる。そういう行動が、最終的に共有地を破壊し、すべての消費者に害を及ぼすこともある』というものであるらしいが、非常によく理解できる心理状態だ、そのため、そうしたことに上からの規制が必要だということも理解できる。
 心理的な拒絶、「感知した何かが、苦痛に満ちた感情を呼び起こす場合、耐え難い苦痛を避けるために、感知を無意識に抑えたり拒んだりすることもある。」その例で、ダムが決壊して洪水が起こったら、かなり遠くの下流の人々までおぼれる危険性があるとき、ダムから数キロでダムの決壊への恐怖が最大値を示したあと、更にダムに近づくと心配する人の率が急落し、最後には0になるというのは興味深い。
 動植物、そして昆虫の絶滅について。そうやって多くの種が絶滅や激減すると、直接には利益をもたらさなくても、人間が代行すると恐ろしく費用がかかる、またはそもそも不可能な役割を果たしているかもしれない弱小種もいる。そうした実例の1つとして、ミミズなどの地虫が減少し、土壌と大気のガス交換に変化が生じたことで健康被害が生じたことがあげられた。
 作物を育てるのに使われた農地の土壌は、土壌形成の10倍から40倍の速度で水や風に浸食するため、土壌の残存量がどんどん減っていく。その例として挙げられたアイオワの教会とその周囲の農地は、19世紀に農地の真ん中に立てられた教会では、周囲が以後ずっと農地として使われていたということもあり、教会は島のように周囲の農地から3メートルほど高くなっている。それは土壌浸食が特別早いのかもしれないけど、ちょっと衝撃的だ。
 「追記 アンコールの興亡」で、「農業を土台とするこのような産業革命以前の低密度都市という現象が、湿潤な熱帯地方には」広範に発生していたというのは初耳だが、「田園都市江戸」(「逝きし世の面影」)がそうした都市の流れで生まれたものなのかどうかが少し気になってきた。また、そうした都市はどのように機能していたのか詳細が知りたくなってきた。