狙うて候 下

狙うて候 (下) (実業之日本社文庫)

狙うて候 (下) (実業之日本社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
江戸でイギリス式の操銃法を学んだ村田勇右衛門は薩摩藩砲術師範役として「村田流」を名乗る。しかし、倒幕に動いた薩摩藩は兵を挙げ、勇右衛門も外城士一番隊を率い、鳥羽・伏見から長岡、会津へと転戦する。維新後、薩摩領内の若者に射撃術を広めていた勇右衛門だが、西郷隆盛とともに上京、日本独自の新銃開発に挑む。近代「もの作り」の元祖を描ききった著者渾身の巨編。


 下巻では一番楽しみにしていた、欧州で銃の腕前を見せたエピソードがついにくるので、わくわくしながら読み進めることが出来た。
 幕末に洋式練兵書を読んでいると、その20種類以上あったそうした書物を研究した結果原書がたった4冊だとわかるという下りは面白い。しかし、同時期に同じ書物を訳したのか、それとも同じ書物と知って自分のほうが上手く訳せると思い訳したのか、簡単に業績や金を得るために既に訳されていることを知って表現を変えて同じ本とわからないように訳したのかわからないが、とにもかくにも20冊以上も洋式練兵についての本があるのにその原書がたった4冊という実態は呆れ。しかし『雷銃操法』という福沢諭吉が独自に訳した本は役に立ち、村田は「この書によって大いに便利を得た」そうだ。ただ、福沢が軍事についての本を訳すというのもまた明治時代のイメージが強いから甚だ意外だな。
 幕末にイギリスの公使館の護衛兵と射的射撃で11対11の立ち撃ち膝撃ち20発ずつを三本やって、薩摩が2本取り英国が1本とって勝利し、更に両者1人選抜しての勝負も薩摩が勝ったというエピソードを読んで、薩摩武士の銃を扱う技術に感服。そして、それでも規律正しく無駄の無い射撃法を学ぼうとする村田の向上心は流石。まあ、元々それを勉強することが目的だしね(笑)。
 「翔ぶが如く」でも見て印象深かったが、桐野を狙った射撃者を、また出てくるから撃つといって実際次に出てきたときに一撃でしとめたというエピソードはやっぱりいいな。ただ、個人的には「翔ぶが如く」での描き方のほうが好みかな。
 そして戊辰戦争で部隊の指揮をとっているが、その後も軍人であるけど、西南戦争では一応行ってはいるけど各種小銃のデータを取るために派遣されている研究将校で部隊の指揮を執ってはいないので、ここくらいしか実際に部隊の長として戦場へ出るというシーンが無いからとても珍しく見える(笑)。
 数十年生きているとされて、地元ではある意味妖怪じみた扱いを受け恐れられていた大猿を銃で殺して、そうした「頑迷固陋」を解くためとはいえ、更にその大猿を食ったというのは流石にちょっと引く。しかし、これはどうも小説っぽいエピソードだなあ、と思っていたら史実だということに吃驚した。
 薩摩に射撃術を広めるために、彼に射撃術を教わりに来た外城士に銃で他郷の人と射撃の競争をして、買ったら横柄な態度をとらせて悔しがらせて射撃の練習をするように仕向け、洋式射撃を広めるという策を実践してもらったら、その策が当たり射撃術が広まっていった。しかしその後の西南戦争があり、そこで西郷側に付いた人たちがその巧みな射撃術を披露して官軍を悩ませたというから、どういう結果になるかは読めないものだね。
 遣米欧施設が出て行った後の西郷は『幾分ナーバスになっており、他人の言葉に動かされることも多かったという。』(P240)西郷に「ナーバス」という表現をあてるというのは今まで見たことが無かったのでちょっと意表を突かれたが、なるほど。
 銃を5発撃つとそれ以後は銃の弾がずれてしまうが、それを村田は弾の鉛がライフリングに付着するため、少し正確に回転しなくなるからだといったがそれをフランス軍の射撃学校の人が信じなかったが、実践して見てそれが正しいことを証明したというエピソードはちょっと本当なのかなと思うほど鮮やかなものだ。
 しかしいくつもの射撃大会から軍用郵便で招待状が来たくらい、その筋で名前が短期間に広まったというのはスゴい!
 スイスのある室内射撃場では的に当てたら賞品がもらえるという仕組みなので、村田が泊まっているホテルのボーイの少年は村田をそこに連れて行き賞品を取ってもらおうとしたという話は微笑ましい。また、その射撃場の経営者は照門、照星ともにわずかながら動き発射の震動で狂いが生じるように細工してあったため、最初は一発放っては照準器を戻していたが、途中から勘で次々と当てていったので経営者は景品6個持ってきて、コレで勘弁して欲しいといったが、結局全部の的に当てるまで止めず、最後少年にその商品の中から3つ選んでもらい、残りを返したあと、今後は銃に細工しないようにと言い残し店から出て行ったというエピソードは実に小気味良い!
 村田銃は当時傑出していたとか独創性があるような銃ではないが、良品質な銃(特に13年式は、来日したドイツのベルムート将軍は「欧州基準でも最優秀の軍用小銃と認む」と述べるなど、当時の一級品)を国産できるようになったという意味で、この銃が登場したのは明治日本にとって画期的なことだった。しかし村田銃というのが一種類の銃ではなく13年式、18年式、22年式(連発式で13年式、18年式とは銃弾の互換性なし)などが存在したというのは知らなかった。