歴史の愉しみ方

歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)

歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
忍者の子孫を訪ね歩き、東海道新幹線の車窓から関ケ原合戦を追体験する方法を編み出し、龍馬暗殺の黒幕を探る―。著者は全国をめぐって埋もれた古文書を次々発掘。そこから「本物の歴史像」を描き出し、その魅力を伝えてくれる。同時に、歴史は厳しいものでもある。地震史研究にも取り組む著者は、公家の日記などから、現代社会への警鐘を鳴らす。

 磯田さんの歴史の本は、どれも読みやすいから好きだな。まえがきによると、磯田さんは、東日本大震災を契機に研究の方向転換をして、過去の日本史から日本列島が地震の活動期に入った可能性が高いから、歴史学が人命に関わる時代になったと認識し、南海トラフ地震の危険性があるのに、歴史時代の地震を研究する大学の研究者が東海に1人も常駐していないことを憂い、自身が浜松の大学に転職したというその現実と日本史、そして自身を緊密に繋げて考えているその高い意識には脱帽!
 第1章は忍者の話!以前、たしか爆笑問題の番組で磯田さんが喋っていたのを見たことがあって面白かったから、文章でも読みたいと思っていたから、こうやって新書の形で読めるようになったのは嬉しい。江戸初期には侍帳に載る名前は頭目だけだったが、中期以降忍集の名前が全員記載され、忍ばなくなったというのは笑える。そして、蟹江城攻めのとき、命じられ敵城の石垣に取り付いていたら、敵方が上から鉄砲で打ってきたため多くが討ち死にしたため、家康がそれを不憫に思い「鉄之盾三拾枚」を与えているが、それにたいして最初から与えればよかったのにという感想はテレビで聞いたときも笑ったが、やっぱり面白い(笑)。
 ちょんまげ、太閤秀吉になってからカミソリを使い剃るようになったが、それ以前は痛みに耐えながら木製の毛抜きで引き抜いたので血が出たというのは、ちょっと引いてしまうと同時に、かつての武士は戦闘中に蒸れないためとはいえ、そんな痛みに耐えてちょんまげにしていたことには思わず呆気にとられるが、なんかよくわからんがすごいという気分になる。
 『この国の民衆は宝暦〜天明年間(一七五一〜八九年)あたりから禁裏様、つまり天皇に政治的な期待をあからさまにかけるようになる。御所に御百度参りをし、賽銭を投げた。幕末にはこれが一層激しくなり、御所に鎮座する帝にむかい色々なものが投げ込まれた。孝明天皇のときが最も甚だしく、片手のもげた胎児の死骸が御庭に落ちていたこともある。』(P38)思ったよりも天皇に政治的な期待をかけ始めた時期が早いなと驚いた。しかし賽銭なら、神社みたく感じていのだと普通に理解できるのだが、胎児の死骸は何を思って投げ込まれたのかちょっと想像できない。
 『ちなみにこの二〇〇年、国民歴史意識の最大影響者は頼山陽徳富蘇峰司馬遼太郎と推移してきた』(P44-5)とあるが、徳富蘇峰って名前しか知らなかったけどそんなにスゴイ人だったのか!ちょっと徳富蘇峰の本か、徳富蘇峰に関しての本が読みたくなってきたなあ。
 皇族旧蔵品のアールデコのペンギン像を指して、古美術商の栗原さんという方が磯田さんにこんないい品がたった8万円で入るようじゃ、日本の文化は駄目になってしまうと慨嘆していた。その像について磯田さんが興味を持ち来歴を調べたら、とても貴重なものと分かり、そのことを栗原さんに話したら、その像と関係の極めて深い東京都庭園美術館に栗原さんはペンギンの像を寄付した。そして、その像を引き取りに来たその美術館の学芸員さんが「二〇年これを探していたんです」と本当に喜んでいた、そしてそれを聞いた栗原さんもまた嬉しそうだったというのは本当にいい話だ。
 それから、石川五右衛門がマンガ「センゴク」の主人公仙石権兵衛に捕らえられたということをはじめて知った。
 薩摩軍が、小勢で関が原の戦場から撤退できた理由の一つは他の軍からすればかなり多い比率で鉄砲を持っていたことにある。