もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら


内容(「BOOK」データベースより)
シド・ヴィシャスの生まれ変わりと囁かれる新進気鋭のパンクロッカーまなぶ。彼の前に立ちふさがる謎の宗教思想「仏教」!その教えにリアルパンクロックを見たまなぶは、恐るべき腕力を誇る老僧に導かれ、仏の道へと足を踏み入れる…。吹き荒れる暴力と悟りの果てに青年は何を見るのか。本邦初、ヴァイオレンス仏教解説!シャル・ウィ・ニルヴァーナ!!

 架神さんの本はわかりやすらしいということだから以前から読みたいと思っていたが、この本ではじめて読了。積んである「よいこの君主論」もそのうち読まなきゃな。しかしタイトル的に、いくつかの宗門に連れまわされるとか、あるいは仏門に強制入門させられるみたいなことだと思っていたら、タイムスリップ(?)して真理を体得すると尋常でない暴力を得るみたいな変な世界観の中を連れまわされる。まあ、現実のまなぶが居た場所も既に変だから変な世界観とか今さらだろうけど。
 しかしゲロとか、釈尊や龍樹など仏教、日本仏教の著名人がやたらと殴りまくっているのとかは、あまり面白いものでもないのに、何度も繰り返されるからそこを読むのは少し辛い。というか、ストーリー部分は正直要らないんじゃないかなあ。
 そしてイラスト、色々と汚い場面を描いたものが多いからちょっと苦手だ。最初のじいさんがなんかオーラを放っているイラストは面白いなと素直に思えたんだが。
 冒頭の『パンクロッカーまなぶはシド・ヴィシャスの生まれ変わりとさえ囁かれる程のリアルパンクロッカーであり、スタジオ練習には必ず六時間以上遅刻し、水の代わりに酒を飲み、一日三回ゲロを吐き、衣類は血と吐瀉物にまみれています。反骨精神も旺盛で何者にもこびず、もちろんベースは一切弾けません。』(P10)最後のベースが弾けないってところでリアルに吹いた。
 煩悩があって困るなら、「〜したい」と思わなければいい。と説明した後の『「プリンとかどうでもいい」「女とかどうでもいい」「仕事とかどうでもいい」「うんこ漏らしてもどうでもいい」「生きるとかマジどうでもいい」』(P29)この畳み掛けるようなテンポは笑う。
 「八正道」、これらの「正しい」とはなんだろうとか考え悩む人もいるかもしれないが、『釈尊にとってそんなことは「どうでもいい」のです。そういった「永遠普遍の正義」などというものは「どうでもいい」と考えました。「正しいことやってりゃ心乱れないだろ?じゃあ正しいことやっとけ!」くらいの感覚です。だからここで言う「正しい」は「あなたの思う『正しい』」で十分なのです。あなたの心が乱れなければそれでいいのです。』(P59)という説明はすごくわかりやすく、なるほどと思えた!
 釈尊と龍樹、結論は「何もかもどうでもいい」と一緒。釈尊は「縁起」=因果関係。「空」=無価値と使い分けていたが、龍樹は「縁起」=相互依存(なので無価値)=「空」となり、同義語に。因果関係だから、父があって子があるという場合、父と子は互いの存在がなければ父でも子でもないわけで、「父」だったり「子」という概念は互いに依存している、「子」という概念がなければ「父」という概念もないという関係である、つまり相互依存関係にあり独立した確固たるものではない。そして全ての概念がそのように他の概念に依存している、相互依存したものであるというのが龍樹の縁起観である。
 行基への弾圧は言葉は厳しいが実際には「それほど酷いことをされたわけではなかったようです」という説明は、その後朝廷に東大寺の大仏作りの協力を求められて、あっさりと承諾するのだから、そうしたことを考えると確かにそうかもと思える。まあ宗教者だから、根に持たないというだけかもしれないけどね。
 唯識思想は『般若経に示される「空」のアイデアを解釈した理論』で、龍樹のあらゆるものは相互依存の上に成り立っているという「空」について、その感覚として理解しにくい「空」を『アビダルマの分析方法を使って懇切丁寧に』説明するものだが、それが懇切丁寧すぎたせいで、その説明は「微に入り細に入り煩瑣の限りを極め尽くして、アマチュアが気軽に理解できるようなものではなくなってしまった」。という説明され、はじめて唯識って、そういうものだったんだということを知ることができた(笑)。そして『唯識というのは「言語で区分される以前のありのままの世界全体をドカーンと感じようぜ」という「空の思想」に基づく修行理論なわけです。それをちょっとガッチリ理論化しすぎちゃったためにあまりにも複雑で難解なものになりましたが、要は「ドカーンと感じようぜ」』というもので『思想的には龍樹で十分代用』できそうなもの、という風に簡潔にまとめてくださっているのはありがたい。
 『法華経には、「他の教えをバカにしちゃいけないんだぜ」といったことがかかれています。他の教えの存在意義を認める相対主義的な態度であり、融和の思想と言えるのかもしれません。ですが、これもヘタをすれば、「みんな大事だって言ってるオレが一番エラい」という包括主義に転じる恐れもはらんでいます。』(P206)というのは、ああ、なるほどなあ。そういう『「みんな大事だって言ってるオレが一番エラい」という包括主義』は現代でもあるし、現在から歴史を見る時でもそうした見方をしてバカにしていることも見かけるなあ。
 4章の訳注『敷衍すれば「全体ドカーン」という全人類共通の生理的現象がまず先にあり、その現象をどう説明するか、「悟り」と呼ぶか「神」と呼ぶかで宗教が分かれている、という言い方もできるのかもしれません。ただ、このような視点は宗教学の世界では100年程前に通って捨てられた「時代遅れの考え方」らしく、現代の学者が言うことはほとんどないそうです。』(P227)個人的には今までそういう考え方していたけど時代遅れでした。しかし、どうしてそういう考え方を捨てたのかぜひ知りたい。
 法然が参考そして正当性の根拠の一つとした、中国の浄土教結社は誕生後しばらくすると消滅した、法然が目を付けなければ歴史に消えていたような団体だったということは吃驚!しかし法然がめちゃくちゃ強引で過激な意図の読み替えをやっていたということに驚いた。そうした強引な読み替えで当時の庶民に救いを与えたといっても、現代ではかえってそうした単純化したせいでその主張のリアリティがなくなっているとの指摘はなるほどなあ。
 あと解説の蝉丸Pさん、ヘヴィファイトを体験したことがあるのか、いいなあ。