服従の心理

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
ナチスユダヤ人虐殺を筆頭に、組織に属する人はその組織の命令とあらば、通常は考えられない残酷なことをやってしまう。権威に服従する際の人間の心理を科学的に検証するために、前代未聞の実験が行われた。通称、アイヒマン実験―本書は世界を震撼させたその衝撃の実験報告である。心理学史上に輝く名著、新訳決定版。

 以前から少し気になっていた本だが、それなりに時間があるときに読もうと後回しにしていて、何ヶ月か積読していたがようやく読了。実験自体も非常に面白いものだが、訳者あとがきで書かれている、現代から見た実験の結果の解釈などについての批判もまた素晴らしく、そこで大きく結果についての見方が変えられる!
 本当の被験者は先生役で、被験者に見せかけた学習者は役者が芝居をしている。『二人の人物が、記憶と学習に関する研究に参加すべく、心理学の研究所にやってくる。一人が「先生」役に指名され、一人が「学習者」役となる。実験者は、この研究は罰が学習に与える影響を調べるものだと説明する。』本当の被験者は先生役で、被験者に見せかけた学習者は役者が芝居をしている。『学習者は一室に通されて、椅子にすわらされ、両腕は動きすぎないように縛りつけられ、手首に電極がつながれる。そして、対になった単語の一覧を覚えるよう言われる。まちがえたら電撃が与えられ、それがだんだんつよくなる。』『学習者が縛りつけられるのを見たあとで、先生役は主実験室につれていかれ、大げさな電撃発生器にすわらされる。大きな特徴は、水平に並んだ三十個のスイッチで、一五ボルトから四五〇ボルトまで一五ボルトきざみになっている。またその強度はことばでも「軽い電撃」から「危険:過激な電撃」まで書かれている。先生役は、別室の人間に学習試験を施すように言われる。学習者が正解を言えば、次の項目に移る。まちがった答えを言ったら、先生役は電撃を与えるよう支持される。』だんだんと強くなる電撃の中、学習者をしている役者は120ボルトで抗議をして、150ボルトで実験を止めるように求める。『その後も電撃が強まるにつれて、その抗議も続き、ますます強烈勝つ感情的な反応になる。二八五ボルトでは、反応はもはや苦悶の絶叫というしかないものになる。』そして被験者(先生役)が電撃を適用すべきか助言を求め、あるいは続けたくないといった場合は、被験者と同じ部屋にいる実験者が「続けてください、(あるいは)そのまま進めてください。」「続けてもらわないと実験が成り立ちません。」「とにかく続けてもらわないと本当に困るんです。」「ほかに選択の余地はないんです。絶対に続けてください。」という4段階のうながしをして、最後の「ほかに〜」でも命令に従わなかった場合、実験終了となる。このような板ばさみの状況は、研究室の中だけのことでなく、程度の軽重はあるが現実にもよく見られるものなので、こうした実験の内容を説明されているのを読むだけでも面白そうなので、関心がそそられ、実験結果が知りたくなる。
 こうした実験で6割程度の人が、最後まで電撃を与え続けたというのは、(確たる予想を抱いていたわけでもないが)かなり意外な結果。だけど責任の所在について先生役(被験者)が実験者に尋ねると、実験の責任は全て私にあるといってくれる上に、4段階のうながしがあるのだから、最後まで行ってしまうというのもわからんでもない。そして被験者の典型的な答え「自発的にはそんなことはしなかっただろう。単に言われた通りにやっただけだ」というものも理解しやすい。そう考えると、6割は別段多いこととも思えなくなる。そしてこうした実験に来る人は、一般の人よりも権威主義的「でない」傾向があるとのことだ。
 あと人間が作ったシステムを人間の実行者を超越したものとして扱ってしまう「反擬人化」が起こり、命令が人間の命令を超えた超越した力を持つように感じられるというのは、そういう概念は知らなかったがなるほどと首肯できる。
 さらに『多くの被験者は被害者を害する行動をとった結果として、辛辣に被害者を貶めるようになっていた。「あの人はあまりにバカで頑固だったから、電撃をくらっても当然だったんですよ」といった発言はしょっちゅう聞かれた。いったんその被害者に害をなす行動をとってしまった被験者たちは、相手を無価値な人間と考え、罰が与えられたのは当人の知的・人格的欠陥のせいなのだとかんがえるしかなくなっていたのだ。』というように、行為の結果として相手を貶めるようになる、というのは目から鱗がはがれた。なるほどこういった心理から、イジメを正当化しようとする言説がでてくるのか。
 そして多くの人は実験者に対して抗議をしたが、一部には抗議をしてそうした考えを抱いていることで、自分は正しい側にいるのだと内心では思っていたが、「実際にそうした考えを行動に変えない限り、主観的な感情など目下の道徳的な問題にはほとんど関係ない」というのは、その通りだと思うけれども、実際には内心で思うことでごまかして、目をそらしがちなところだから意識しとかないとな。
 行動を分担すると、分担した他者(例えば最後[末端]の実行者)に責任があると言うようになり、そして誰も責任を感じなくなるというのは少し驚き。しかし、分担した他者(例えば最後[末端]の実行者)に責任があると言うようになるというのはありがちだが、こうやって実験でもそういう風になるということは、会社の経営者の言い逃れのための方便ではなくて、実際には案外本心から言っているのか、まあだからといって、そいつらの実際の責任を減らすべきなんて全く思わないが。
 4章・5章そして7章で引用された被験者の発言や、実際のある被験者のケースなんかをみると、真に迫ったというか、その人たちは本当だと思っているからリアルな反応や個性を見ることができて、とても面白かった。なんというか村上春樹アンダーグラウンド」もそうだが、同じ状況下に置かれた人々の行動や考え方の差異がリアルに感じられるものが好きなんだ、とさきほど気づいた。
 また基本実験のほかに細かな条件を変えたいくつもの実験についても結果とそれに対する考察や、それぞれの実験での実際の被験者の反応もいくつか書かれていて面白い。そうした実験のうちの、実験者と学習者の容姿を変えた実験では、実験者あるいは学習者の容姿はほとんど結果に影響がでなかった。ただ女性の実験者や学習者とすることがなかったようなので、それについてはわからないが、もしそうした実験の結果があればもっと面白かったのにとも思う。
 『従順な行動には保存性がある。最初の指示を出したあと、実験者は被験者に対して新しい行動を始めろとは言わず、単にそれまでの行動を続けるよううながす。被験者に要求される行動の反復的な性質は、それ自体が束縛力を持つ。被験者はますます強くなる電撃を加えるにつれて、それまで自分のやってきたことを正当化しなくてはならない。その正当化の方法の一つは、最後まで続けることだ。もし中断したら、かれは自分にこう言うことになるからだ。「これまで自分がやってきたことはすべて悪いことだった。中断することはそれを自認することだ。」だがもし続けるなら、過去にやったことは裏付けを得ることになる。それまでの行動は不安をもたらすが、後の行動でそれが中和される。』(P224)というのは、こんな短い時間続けたものでもそうした心理が発生するなら、もっと自分が主体的に関わったり、もっと長い期間やっていたものでは、もっと止めにくくなる束縛が強くなるだろうから、そうした行動(愚行であっても)の中断しがたさというのは今まで想像していた以上のものがあるのだろうと思うようになった。
 学習者が抗議している中で、電撃を続けるのは被験者に不安をもたらすが、一旦服従しないと決めたら、あらゆる緊張や不安や恐怖が消えるというのは、とても興味深い。
 非服従しないまでも、多岐選択の問題で答えを強調して読み上げたり、実験者が部屋にいないタイプの実験で与える電撃を低い段階でとどめたりなど、何かをすることによって「ごまかし」をして、良心と折り合いをつける。また実験者が被験者に責任がないと保障すれば、緊張は目に見えて減る。
 被験者が不満を訴え、非服従に至る過程として「内心の疑惑、疑念の外部化、不同意、脅し、非服従」の段階がある。疑念の外部化は、当然実験者に向かって実験への疑念を表明すること、例えば本当に大丈夫なんですかとか。不同意、これは自分が同意できないことを示し、方針を代えてはどうかという打診をすること。脅しは、これ以上やるならボクはやりませんというようなことを言うこと。非服従は、実際に電撃を流すのを止めること。
 訳者あとがきで、道徳教育で周囲の圧力に負けずに主張するように教えるとしても、そもそも教育自体が権威への服従を前提としているなど、単に服従を悪としてしまうと、八方塞りになる。そして著者のミルグラム、全くランダムに人を選択して、手紙を知り合いに直接手渡しで運んでもらっても、最大で6人を間に通せば、その手紙の宛先である人にたどり着くというのは、彼が行った実験によって得られたものなのか!(現在では、最大6人ということには疑問符が付けられているようだが)。しかしミルグラム、流行に流されやすく、最後のほうに急に出てきたサイバネティクスオートマトンとして参加者をモデル化できるといっているが、『でも、それが何か?本書での議論は単なる言い換えにとどまり、そこから何ら有益な知見が得られていない。当時流行だったから、サバネティクスと言ってみたかっただけなのではないか』(P338)という突込みがあり、そこらへん部分はよくわからなかったけど、なんか実験について新しいことは述べていないような気がしていたが、確信を持てなかったが、その突っ込みのおかげで、やっぱり「有益な知見が得られていな」かったのね、と確信が持てた(笑)。
 そして、訳者あとがきの後のほうに、蛇足として現在から見た服従実験の批判が書かれているが、そこがなるほど、確かに、と思えて非常に面白かった。まず「人を傷つけない」ことが根本的な道徳かについて疑問をていし、むしろ本書で扱われているベトナム戦争のソンミ村事件は『近代戦争のお約束事を権威が貫徹させられなかった服従の失敗事例ではないか。』(P346)と述べているのは、そういわれれば、確かにそうだと思えた。まあ、言われなければ気づかなかったのだから、恥ずかしいが。こうして気づかないのも、また権威に対する服従(信頼)だよなあ。
 また本文では「個人の道徳」と「権威」が対立して考えられているが、実際には『ある権威(大学の科学研究)と別の権威(社会全体)との対立ではないか。』(P347)あるいは、『人を傷つけるな、という道徳律は、社会という権威の指示である。一方、大学・科学という権威も間接的には社会という権威の一部であり、したがって電撃を加えろという指示も社会のものである』(P349)というのは、確かに、そちらのほうが合点がいく。
 そのほかにも被験者は覚えることが多かったため一部の人は実験の手順すらなかなか習得できず、さらに実験自体も30分ほどで一気呵成に行われたため、道徳について冷静に判断する余裕がなかったとも言えるという指摘も納得できるだけの説得力がある。
 本書でマイナスの意味を付与されている権威への服従は裏返せば権威への「信頼」であるというのもまた首肯しやすい。そのため単に意志が弱く反対できなかったのではなく、社会への信頼が強いということもできる。
 権威は無謬ではない、だが個人の知識や判断のほうが限界を有している。そのため、反抗せずにとりあえず指示通りにするのが一般的な処世術であり、そうでなければ社会の円滑な運用さえ支障をきたす。そうすると結論は、現在のような各種権威の相互監視やチェックシステムで、各種権威を信頼できるように保ち、人々はその信頼を前提として安心して服従するというものというものになるというのも、なるほどねと思える。しかし『理論家としてのミルグラムには、実験化としてのミルグラムほどの輝きはない。』(P355)というのは、率直過ぎてちょっと面白い。