武士とはなにか

内容(「BOOK」データベースより)
中世は「武士の時代」だった!覇権をかけた武士たちの闘い、そして武家政権としての将軍権力の実態とは?源平争乱から戦国時代を経て、徳川幕府完成まで―。貨幣経済の浸透、海の民の活躍、一神教の衝撃、東西の衝突などの刺激的な視点から、武士が「戦士から統治者としての王」となったプロセスを追う。先入観や従来の教科書的な史観を排し、その時代の「実情」から、権力の変遷を鮮やかに読み解く、新しい日本中世史。

 名前は見たことがあって、この本(旧題「武士から王へ」)も以前から気になってはいたのだが、実際に本郷さんの本を読むのは今回がはじめてだ。
 歴史学史というのか中世の国家体制についてどういう前後関係でどの説が出てきたのかが少しだが書かれているのは、今まで歴史の本を読んでいてそこら辺のことを書かれているのを見たことがなかったのでちょっと面白かった。なので、もう少し読んでみたいなという気も少し起こってきたので、そこら辺のことを知るにはたぶん大学での歴史の教科書みたいなものがいいのだろうと思うので、ちょっとそうした教科書類で何か読みやすそうなものを探してみよう。
 承久の乱以降の朝廷は軍事力を有せなかったため、官僚組織を積極的に育成し徳政を行い、伝統と祭祀権を強調する道を選択した。よく考えたら王権といいつつ、軍事力を持たないというこの時期に王権は、それはそれで異形の王権だよなと思ったり。
 細川政元は十代将軍義稙を追放し、十一代将軍義澄を傀儡として幕政を思うがままに操った。政元は『自身が擁立した足利義澄が参議・左中将に任じられることになると、彼は次のように言った「宰相中将も何も御無益なり。愚身意得は将軍と存ずるばかりなり、いかにご昇進これありといえども、人もって御下知に応ぜずんば、その甲斐なし。ただこの分にて御座しかるべし」(『大乗院寺社雑事記』文亀に年六月十六日条)。任官など、無益。わたし政元が将軍だと思えば将軍なのだ。どんなに官職が昇進したところで(今の朝廷の官職に実体はないのだから)人が言うことを聞いてくれないのでは、甲斐がないではないか。』(P33)という台詞は振るっている。そういう言を聞くと「政元こそ、真の下克上の体現者」というのはなるほどと納得できる。
 「御成敗式目」により幕府は単に御家人の利益を守るだけの王権ではなく、公平な立場からこの法や当時の道理から是非を判断できる王権へと成長した。そして時頼の施政期にいたって、撫民を強調するようになった。それらは幕府が力を及ぼせる範囲が単に東国・武士だけでなく、日本国全体へと徐々に範囲を拡大していったことを表す。そうした方向性は安達泰盛に引き継がれるが、幕府は御家人の利益を代弁するための組織だと訴える武士たちも多く、霜月騒動によって安達泰盛が倒れ、泰盛とその与党が排除されるとそうした統治への取り組みは停滞し、後退した。本郷さんは、それが幕府滅亡の真の原因と考えているようだが、たしかにそうして公平に扱われなくなったというのはでかい要因だろうなあと素直にそう感じられる。
 袖判下文は初期の頼朝が、権威の助力を受けていない、自身が構築した権力だけに裏打ちされた王権の原初的な形で、王権を表象する文書様式であり、特別なものだった。
 「平家物語」で書かれた清盛落胤説、それが「いかにもあり得る話だな、と鎌倉時代の人々は納得していた」というように、この話が当時の人々にもリアリティがあったという考えは持っていなかったからちょっとハッとする。
 宋とは正式な国交は開かれていなかったが交流は活発に行われ、輸入された宋銭だけで二億貫(二千億枚)に及ぶという、その銭の量の想像以上の膨大さに驚かされた。そして、そうした大量の銭が流通したことにより、1225年から1250年の間に、貨幣経済が急速に浸透した見方が最近では有力だそうである。
 「徒然草」に書かれた北条宣時が語った、北条時頼が味噌が少しついた皿をつまみに酒を飲んだものだというエピソード、そのように『質素・倹約を美徳にする風はたしかに存在していた。だが時代が下ってそれが説話、語り草に』(P108)なってしまっているという指摘はなるほど、たしかにこの「徒然草北条宣時の談話では、昔は良かったと懐かしむものになっているので、つまり現在は違うと。
 そして貨幣経済の浸透により、貧窮する御家人が増え、霜月騒動により幕府が公平な行政機関から、御家人の利益を代表組織へと変化していった。そうした方向性が「永仁の徳政令」では露骨にあらわれている。しかし永仁の徳政令は幕府滅亡まで有効だったというおのは知らなかった。
 室町時代はバサラたちが活躍する時代であるが、新たな価値を作り出せなかったがために結局は統治する機関・制度を、都合がいいようにアレンジするにしても、職の体系・荘園制・天皇制の権威や価値観が必要であったので天皇制が温存された。
 武家王家はその構造のために一神教を強烈に否定した。阿弥陀仏なり「神」を信仰し、その集団を教団のトップが動かせるとなると、武家の王に服さない別の強大な権威があるとなると、既存の体制を破壊する恐れがあるのだから、その社会での支配者が危険視するのは当然といえば当然だな。