昭和東京ものがたり 2

昭和東京ものがたり2(日経ビジネス人文庫)

昭和東京ものがたり2(日経ビジネス人文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
「今までの記述でやっと昭和十一年まで来たわけである。統計によれば多くの国民はまだ生れておらず、この時代も、この時代の東京も知らない。教科書では二、三行で終ってしまうこの時代にも多くの人が生活をし、わずか十年と少しで東京はこの時代にも大きな変貌をとげていた」―山本七平が遺した、真実の「昭和民衆史」完結編。

 2巻では前の巻よりもだいぶ戦争に関する言及が増えてくる。しかし、そうはいっても、当時から普通の市民の生活にも影響を与えていたというわけではなかったようだ。最後は二・二六事件のことを数本分のエッセイにわけて書かれて、この本が終わっている。
 世界恐慌の波が日本に襲ってきたとき、山本さんの家はそんなに贅沢な暮らしをしていたわけでないのに、東北から来た事業家が山本さんの家にやってきた時に『御馳走になって、こんなこと申し上げては、と思いますが、故郷の百姓がこんな生活を見たら革命を起すでしょうなあ』(P35)と言ったように地方にはとても厳しい現実があった。そうした現実もあったからこそ満州事変により軍需が増えて景気が上がったことにより、失業者が減ったから、そうした意味で世の中が明るくなった。
 『日本人のもつ上昇志向は、ある意味では「個人主義的」であって、「階級主義的」ではない。彼らは、一生下積みの労働者から何とか抜け出すことを考えても、「労働者階級の向上」といった考え方はなかった。』(P51)という指摘はブラック企業みたいな労働状況があっても結局、自己責任みたいな言説が多く見受けられるのを見ると、基本的にそうした労働の最低条件を向上させるという考えを持っている人が多いとは感じるから、戦前から続いている気質なのかな、ともこうした文章を読むと思ったりもする。
 一人一殺で有名な血盟団事件、単純に諸悪の根源を打破すれば世の中がよくなるという主張はどうかと思うが、例えばもっと格差是正を要求し、そうした人々に格差是正の政策を実行させるための圧力を加えるためにとかだったら、まあ、そういう不満を持った人が大きな事件を起こすことで改善されることもあるから、ありかなとは思える。というか、個人的には血盟団に共感する気分はあるし、少なからず魅かれる。そして『中産階級は一貫して彼らに嫌悪感を抱いていたが、貧しい人はそうではなかったように思われる』(P58)とあるが、今後とも貧しい人が増えるだろうから、そうした彼らの行動に共感を覚える人は徐々に増えていくのでないだろうかとも思っているので、なんか最近血盟団事件を扱った本も出たようだし、今後より注目される事件ではなかろうかと素人考えながら思っている。
 共産党大検挙、当時は「記事差止メ」という処置があり、与信終結とともにその内容が公表されると言う方式がとられていた。著者も言っているが、たしかに、この制度は起訴されなかった人には、容疑を受けた段階で犯人扱いされて、それで社会的な損害を被るというのがなくなるから、ありがたいことだね。
 『昭和のはじめにはむしろ海軍の方が危険なように思われていた。』(P73)というのは意外だったが、血盟団事件では海軍の軍人が拳銃と銃弾を提供し、また二・二六事件を起こしたことを書かれると、確かに東京に住んでいる人にとっては海軍の方が危険な存在に思われても仕方がないな。
 虎の門事件の難波大助って上流階級の人だったとは知らなかった。
 それから、山本さんが小学生だった頃から、日本人は国旗を大切にしないと言うことをよくいわれていたというのを見ると、そういうのは戦前からのことなんだなとなんだか少しホッとする(苦笑)。それに、それ以前にもそういう習慣が一般にあったとは思わないから、そういう習慣がそもそもなかったということかな。
 検察が告発をすることで内閣をつぶした「帝人事件」では、「検察の空中楼閣」と断じて裁判で全員無罪となった。そうしたことから「司法ファッショ」と言う言葉が流行し、またそれが日本ファシズムの源流であるということを知ると、なんていうところからはじまったのだと頭を抱えたくなってしまう。
 昭和10年ごろ、検閲は厳しくなっても古本にまでそうした統制が及ぶと言うことはなかったり、また、検閲で××にされたり、削除された部分を謄写版ガリ版)で印刷した「××および削除部分の謄写印刷冊子の販売」がされていたが、それを検挙するようなことはなかったというように、「日本のお役人のやり方は、どこか間が抜けていた」が、なんだかその間抜けさはかえって愛おしい(笑)。 また、逆に削除部分や××で消されたところが重要だとわかるので、その××や削除部分がその本、例えば資本論など、の骨子がどこにあるかを教えてくれたと言うのも面白い。
 しかし国号を「大日本帝国」に統一することを定めたのが昭和十一年だというのは知らなかったので驚いた。
 二・二六事件で放送局を占拠しなかったのは、当時のエリートたちは、国民大衆は指導すべき無知な存在で、彼らに対してアピールすることを考えていなかったからだが、僧考えるとたった10年後の終戦時の玉音放送天皇が自ら発案し、国民に直接語りかけたというのは、山本さんも不思議がっているが、なかなかに不思議。
 二・二六事件のとき、人々は不安に思って雪が降り積もる中、皇居のお堀端に多くの散歩者の姿が見られたと言うのはなかなか不思議な光景だ。一体どういう心理だったのだろうか。
 昭和戦前、単純に一色で塗りつぶせるようなものではなく、関東大震災から昭和5年昭和6年から11年、昭和12年から15年、昭和16年から20年までのそれぞれに違いがある。『簡単にいえば、昭和のはじめから五年までは、大震災の後始末と世界恐慌に苦しめられた時期。東京では食えないからと、多くの人が鉄道線路ぞいに、歩いても、出身の農村に帰ろうとした時代であった。ところが六年から様子が違ってきた。山本夏彦さんが言われるように「満州事変」で世の中が明るくなった』時代である。もっとも景気がよくなったのは軍需景気だけではなく、金本位離脱の円安で、綿布の輸出が大いにのび、成長率年七パーセントを継続しえたからであった。』(P292)