昭和東京ものがたり 1

昭和東京ものがたり〈1〉 (日経ビジネス人文庫)

昭和東京ものがたり〈1〉 (日経ビジネス人文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
山本七平が実体験をもとに後世に書き残した、真実の「昭和民衆史」。

 大正・昭和初期の時代の生活についての話とかに興味があるので、この本の内容は読みたい内容にぴったりで面白かった。エッセイで子供の頃の大正・昭和初期の普通の人たちの生活などについて読むことができるので、すごく面白かった。こういう本がもっと一杯あればいいのに!
 タイトルは「昭和東京ものがたり」だが、関東大震災よりはじまる。しかし山本さんは絶えず大震災の話を聞いて育ったため、記憶しているような錯覚が残っている。これは昭和18、9年に生まれた人の東京への記憶が20年の3月と5月の大空襲からはじまるのに似ているとあるが、錯覚かもしれないということだが、はじめての記憶がそうした大事件というのはわりあいある出来事なのか、へえ。
 震災時の朝鮮人の暴動というデマは、山本さんたち一家も震災後4時間でそのデマにより兵営に逃げ込んだというのだから、誰かが意図的に起こしたわけでなく自然発生的に起きたもののようだな。
 戦前は役者の収入は課税の対象ではなかったほど、カタギとは区別されていたというのは現代からみると考えられないな。しかし当時の劇場には「警察官御席」があり、山本さんの親戚であり近所に住んでいた戯曲家の永田衝吉は、かつてそうした席で芝居がただで見ることができるから内務官僚になったが、文学的評価として「ウーン、ここはちょっと問題だな」と思わず口に出したら、その瞬間一緒にいた警察官が楽屋に飛んでいきどやしつけて、相手は平身低頭で謝り。そして芝居が終わると一杯ということが重なり、嫌気がさして戯曲家になったというのは面白い。けど、現代でこういうエピソード見たらきっと正気かと思ってしまうので、山本さんの父のように彼の身の処し方に不満を覚えるのもよくわかる。
 当時の東京の家庭は、多くが両親が東京1世、子供が東京2世であったので、それぞれの出身地の「地方色」が現在よりも濃く、またその家の当主の性格が強く家庭内に反映していたため地方色とは別の特色もあった。というように家庭ごとの違いが現在よりもずっと多かったということのようだから、戦前だからと画一的なイメージを持つのは大きな誤りということか、なるほどね。
 押入れの中の天井板の一枚は修理用の入口になるため、押し上げるとすぐ外れる構造になっており、そこから天井裏の探検をやっていたというのは、子供には面白そうな遊びだが、そうした天井裏が探索できるような家というのはいつ頃まであったのだろうか少し気になる、まあ、今でも古い建物でありそうだから0ではないだろうが、まあ、それなりに一般的だったのはという意味で。
 しかし炬燵をよく使っていたが、換気はしていなかった。それでも、一酸化炭素中毒で死亡したというニュースは耳にしたことがなかったくらい家の風通しがよかったというのだから、当時の家は冬がめちゃくちゃ寒そうだ(笑)。
 昭和初期では、親子の対話はどの家でも父親は働きに出ており、母親は家事に追われていたため、『「親子の対話」などが、もっともらしく行われている家庭は、少なくとも私の周囲にはなかった。』(P41)というのは理由を聞けば納得だが、そうした家族の交流は昔の法が強かったイメージがあるため意外でもあった。
 しかし昭和初期、やはり現代と比べれば相当貧しいということもあって、部分的にいいなと思うことがあっても単純に羨ましいとは思わないが、ただ一つ無条件に羨ましい、素晴らしいことだと思うのはゴキブリはいなかったということだ。
 草履の音は「ひたひた」と書かれるのが、通例だったというのははじめてしったが、その擬音って元々は草履の音をあらわすものだったのかな。
 そしていろいろな商品やサービスを家々を回って提供して商売している人(振売)が、納豆屋、(下駄の)歯入れ屋、あと魚売り、傘の修理屋などなど、色々いるというところにまだ江戸の名残りを感じるなあ。
 明治以降は立身出世の社会になったというが、多くの人はまだ昭和の初期でも与えられた境遇の中で満足するという「知足安分」という江戸時代からの意識が残っていたため、それほど殺伐とした競争が社会の空気としてあるわけではなく、わりとのんびりとしていた。昭和のはじめは、ある種の学歴制での身分制で、義務教育以上の教育を受けた人以外は、家業を継いで生涯を送ることにほとんど何も懐疑を持っていなかった、現在から見るとそれはそれで幸福だよなとも思う。しかしまあ、同じ選択をするとしても、他の選択があるとしっかり知った上でのこととそうじゃないのとではまた違うか。それは動物をみて野性のままでシンプルに生きていることに羨んだり、それを美しいと思うというのと似ている、失礼なことだしね。
 幕藩出身の明治生まれは、戦後と同じように、「四民平等」ないし「戦後民主主義」の恩恵を受けたが、それは占領軍によってもたらされたものだが、それをてきとした人間の中で育ってきたので、明治・戦後を高く評価するが、占領政府には反発し徹底的に嫌悪するという形にならざるを得なかった。というそういう屈折した思いを抱いている人が、まだまだまだ昭和初期にはいたのかという思いもあるが、よく考えたら維新から50年程度しかたっていないのだからそれも当然か。そして、戦後世代との共通点も面白い。
 戦前と現在ではお金を使うところが違い、生活は貧しいけど夏になると一家で2ヶ月近く海に避暑に行った。そういう部分に関しては、昔の方が欧米的な生活様式だったのね(笑)。
 当時は、子連れで乞食をすると貰いを増えるから、乞食に子供を貸す商売もあった。というのは、石井光太さんのノンフィクションで、東南アジアでそういうことをしていることを知っていたが、昭和初期には日本にもあったというのは全く知らなかった。
 軍縮の際、多くの軍人が職を失ったがエリートだったということもあり、「体面」のために付ける職業も限られ、恩給だけで細々と暗く暮らしていたというのは、昭和初期という一時の平和な時代での暗い一面だなあ。後々にその怨みがとんでもないことを巻き起こすということも含めてね。
 遊里に行って、性病を移される徴兵検査で殴られるから、そういった意味で性病の予防効果もあったというのは少し笑える。
 山本さんの父は子供の頃、兄と2人ですきやきを食べた時に美味しかったという記憶もあるためか、すきやきのときは興奮してはしゃいで、全て自分の手でやったというのは、微笑ましい。
 少なくとも山本さんの世代では、教師は絶対的な権威を持っていたため、体罰なんてなかった。そうしたのがなくなった理由って、昭和初期の教育から、戦争に突入するときにまず1回、戦後にまた1回と短期間に態度を正反対にくるくる変えたせいなんだろうなあ。
 しかし小学校までの行き帰りの道の途中で有名になる以前の忠犬ハチ公を見ていたというのはちょっと驚き。
 教育勅語、内容をみんな知っているというわけでもなく、お経みたいなものだったという説明はなるほど。