「月給100円サラリーマン」の時代 戦前日本の<普通>の生活

 戦前日本のミクロの情報、日常的な金銭・値段の話が書かれる。戦前を良くも悪くも別世界にして、勝手なイメージを投影されることがある。しかし戦前の日常的な物事を見ることで、良くも悪くも現代とあまり変わらない人々の姿が見えてくる。
 『昭和ヒトケタから昭和三十年代なかごろまでの日本人の基本的ライフスタイルはほぼ同じだったといってよい。つまり、戸建ての日本家屋に住み、主に和室で生活し、ふだんの買い物は八百屋や魚屋といった個人商店ですませ、日常の足は公共交通機関に頼るという生活だ。』(P14)『戦後の日常生活面だけをみれば、終戦で変わった部分より、マンションやマイカーの普及、スーパーマーケットの登場など高度成長期に起きた変化の方がずっと大きかった。』(P15)

 ○昭和初期の物価の物差し
 『二〇一五(平成二十七)年の東京都区部物価指数は、総合で戦前基準の約千八百倍。食料や被服は二千倍前後だ。最近の物価が安定していることを考えれば、昭和初期の約十年間の物価を現在と比較する場合「およそ二千倍」という水準は今しばらく使える物差しだと思う。』(P19)そう書かれることで、戦前の物の値段のイメージがぐっとしやすくなった。うな重60銭(1200円)、天丼30〜40銭(600〜800円)、もりそばやコーヒー10銭(200円)、東京市電7銭(140円)。そして円タクや円本は現在の2000円。
 都内の家賃は平均十数円だった。その平均の家賃では六畳と四畳半の二間を借りられるだけだったが、30〜40円(8万!)出せば東京で二階建て一戸建てに入居することも可能だった。
 女中さん、食事部屋付きで月十円で雇える。現在からみると酷い環境だ。
 収入については五千倍換算することもある。『おおざっぱに言って、物価は二千倍に上がったが、収入は五千倍上がっており、その分日本人は豊かになったと考えればよいのではないか。』(P26)

 ○割合
 戦前のホワイトカラーの割合。『小池四郎は昭和四年の『棒給生活者論』で公務員、民間企業従業員、医師などの専門職を合計すると、百七十万人から二百万人程度ではないかと推計している。それだと就業人口の七パーセント弱だが、就業人口の一〇%以下だったのは間違いないだろう。』(P28)

 ○現代的な状況と悲哀
 昭和一一年に王子製紙社長藤原銀次郎が書いた「引き合わぬサラリマン商売」という文。明治期は国内でさまざまな産業が起こされて行った時代で新教育を受けた人々がたちまちに出世できた、大正時代には大戦景気のため新卒者の就職口がいくらでもあった。昭和は大戦後の反動で会社は新規採用を見合わせて、インテリの失業者が増えた。『私が銀行会社員だった頃と今日とは全く事情が違う。その頃は、銀行会社員といえばそのすべてが頗る割のいい時代であった。今日その当時に十倍し二十倍する努力奮闘を続けても、単なるサラリーマンとしては、その当時の十分の一、二十分の一の成果をすら収めることは出来難い。』(P36)
 就職難だった昭和四年五月号「文藝春秋」で経済学者石浜智之は、三月の朝日新聞に出た早稲田大学田中穂積の談話への反論。『田中が「最近の学生は就職の希望が贅沢だ」と語ったのに対して、石浜は「(最近の学生は)論者の青年時代の様に大学を出て大臣を夢見たり重役を希望したりはしない。最低限度の生活資料だけで満足せんとするものが多い」と学生を弁護している。要するに、あんた方の時代より志望も地味になっているにもかかわらず仕事がないのだ、というのだ。』(P193)

 ○昭和初期のサラリーマン、収入の基準
 『戦前を通じて収入のひとつの基準になっていたのは「月収百円」または「年収千二百円」だ。』(P36)
 大正十五年から昭和二年の一年の都市勤労世帯の収入、世帯主93円19銭、家族や家賃収入を含めた世帯合計で113円62銭が平均。昭和六年は一世帯平均実収入が86円47銭、ホワイトカラーで92円強。実際にはボーナス副業含めて月100円、年1200円というのが一つの規準だったということか。
 昭和六年「実業ノ日本」で早稲田大学教授帆足理一郎は、世帯の平均年収を八百円と推計。『相当の生活の理想水準は二千円だとしても現実、日本人の一般収入平均が八百円位だとすれば、事実上からは、そこらを平均生活水準として、生活の合理化を試むべきではあるまいか」(「年収千円内外の者はいかに其生活を合理化すべきか」)/ と帆足は書いている。ここでも年収千円内外を一つの規準とみていた当時の感覚がうかがえる。』(P42)
 昭和七年十二月号「文藝春秋」のアンケート。中卒、専門学校卒など当時の高学歴者、平均31・6歳で平均月収約82円、夏冬のボーナス含むと年収1200、月収100の水準にのるくらい。
 つまり当時のサラリーマン(都市エリート)層でまあまあ納得いく水準が月100、年1200というラインなのかな。
 大正十年二月号「中央公論」森本厚吉が考えた中流ラインは年収三千円。しかし年収3000〜5000円の世帯は0.3%。うち『六百から二千円という「下流の上」もようやく約九パーセントで九割が六百五十円以下という結果になった。』(P62)
 浜口内閣の官吏減俸について、記者の質問。減俸基準が年収1200円というのはミニマムな生活だから、3000円以上の減俸にしてはと聞いている。『「年収千二百円」では減俸に同情の余地もあるが、森本が中流階級の標準にした「三千円以上」ならまあ裕福なほうに入るからいいだろうという相場観がわかる。』(P63-4)

 ○服装とその値段
 大正14年銀座の今和治郎の調査、男は洋服が67%和服33%、女性は和服が99%。普段着の銘仙一反十円だが、仕立て代や帯・襦袢など合わせると一式最低三十円、2000倍で6万円と結構なお値段。それをシーズンごとに三、四枚は必要。そのように『安物でも一式三十円からとなると、一般家庭では着物を毎年新調したりせず、汚さないように神経を使った。』(P48)
 男の場合、会社に出勤する時の背広。既製品もあったが基本オーダーで、安いのが三十円ほど。そして紳士靴が意外と高く『ボックスカーフの短靴が十円五十銭、コードバンともなると十九円で、下手な家賃より高いくらいだ。』(P49)
 『婦人の和服が身分制と一体になっていた戦前の社会感覚』(P81)。『洋服は貧しげに見え、高価で機能的でないきものを着ていることこそが安定した家庭や豊かな生活の象徴だった。だから、面倒に思っても若い女性には洋服は「恥ずかしい」もので、なかなかきものを脱げなかった。』(P88)和服はコストが高かったが、そうした感覚があったので和服を着た。

 ○住まい
 『戦前の家庭の八割は借家住まいだったから、家賃は常に家計の最大の支出の一つだった。家賃は収入の三分の一程度までとか、五分の一に抑えろ、とかいった相場観もあったようだ。』(P97)借家住まいが多かったのは、サラリーマンが現在のように長いローンを銀行で組んでもらえなかったというのもある。
 しかし『関東大震災後には良質な住宅を供給する目的で、同潤会などの団体が設立され、昭和に入るとようやくサラリーマン向けの持ち家の供給体制が整い始めた。』(P111)