伝説の総料理長 サリー・ワイル物語

内容(「BOOK」データベースより)

かつて1920年代、日本に本格フランス料理を伝えた伝説のシェフがいた。その人物はスイス人サリー・ワイル。横浜のホテルニューグランドの初代総料理長として腕をふるい、ホテルオークラの小野正吉、東京プリンスホテルの木沢武男、日活ホテルの馬場久…数多くの名だたる料理人を育てあげた。その系譜は今も日本のフランス料理界に脈々と息づいている。ワイルが日本の西洋料理界にもたらした革命を克明にたどり、その情熱の根源に迫った力作!

 日本のフランス料理の発展に非常に大きな貢献をしたが、あまり知られることが少なかったサリー・ワイルを描いた物語。取材の過程、どのようにしてそうした人物についての資料を集めることができ、彼について知っていたかについても書かれるので伝記というよりは、ノンフィクションといったほうが雰囲気的には近いというか、著者がノンフィクションライターなのでそのまんまノンフィクションでいいのだろうが。
 スイス人のフランス料理人サリー・ワイル。取材風景、取材途中を書くことで、徐々に日本の文献だけではわからなかったワイルの足跡が現地での取材でわかっていったり、彼と仕事場を共にした人々が語ったエピソードを見ることで彼の人物像や当時の日本の西洋料理界が見えてくるという、そうした徐々にわかっていくわくわく感がこちらにまで伝わってくるからいいね。
 著者は日本で本格的なフランス料理をもたらした人をテーマに調べていたときに、万博前後に、多くの日本人料理人のヨーロッパ留学を援助していたスイス・パパと呼ばれたサリー・ワイルのことを知る。
 サリー・ワイルは戦前に横浜のホテル、ニューグランドの総料理長に招かれて日本にやってきた料理人。ホテル料理人の人脈には帝国ホテル系、ニューグランド系、オリエンタル系などがあるが、そのニューグランド系の創始者。当時徒弟制的空気が残っていた日本の料理界で、当時のヨーロッパの流儀を持ち込んで、ローテーション制で色々なことをやらせながら自分で技術を色々と教えた。当時は最初に配属されたのが魚料理なら魚料理、肉料理なら肉料理でその道を極めるためずっとその持ち場ということが多かった。
 彼は20年間日本に滞在、戦後になって日本を離れる。戦中には外国人が集められた軽井沢で色々苦労していたようだ。
 ワイルには子供がいなかったので、姪がワイルの資料を色々と持っていたが、高齢になった彼女はもう処分しようかなとも思っていたようなので、著者の取材タイミング、ワイルの足跡を知る上ではなんとか間に合ったという感じみたいだ。それに戦前にワイルと仕事をした人もかなり高齢となっているので、そうした意味でも何とかという感じ。
 関東大震災で横浜は洋風の家が多く特に被害が甚大(被災世帯が95%!)だった。それもあって横浜から外国人が去っていった。それを呼び戻す。横浜の町をよみがえらせるための事業、復興のシンボルとしてグランドホテルの跡地にホテルニューグランドは建てられ、外国人シェフ(すなわちワイル)を招聘した。
 当時は東京よりも、外国人の多く、外国人経営で外国人相手に営業していたということもあって横浜のホテルやレストランのほうが質、量ともに上だった。そして外国人の多さもあり、西洋文化がかなり身近で異国情緒豊かな都市だった。しかし震災で多くの外国人が横浜を離れ、震災前に約2400人いた中国人を除いた外国人は、昭和元年には約1000人と半分以下となった。
 ホテルニューグランドの調理場は最新の設備をつけられた。また、当時日本のホテルのレストランではコース料理のみだったが、ワイルはグリルルームを作ることを提案し、そこでは一品料理も出して、西洋料理(フランス料理)を親しみやすいものとした。
 ホテルニューグランドのレストランは大いに繁盛し、また、その噂は全国に広まって震災後であり、当時恐慌中だったということもあって外国人シェフが珍しくなったということもあって、多くの料理人が横浜に集ってきた。帝国ホテルで総料理長を務めたことがある人も、副料理長としてホテルニューグランドの調理場に入ったほど。
 ちなみにワイルは当時の日本の料理人の中では斬新だった経済性、原価計算という発想も持ち込む。また、彼がお客さんが体調悪いといってきたときに即興で作ったのがドリア。ああ、ちょっと前に、スイス人のフランス料理人が日本で作ったイタリア料理という話と共に何度か見たけど、その料理人の名前忘れていたがワイルのことだったのね。
 ホテルニューグランドの近くに自分でホテルを経営していたが、戦中に手放さざるを得なくなった。かなりの高給を貰っていたようだが、そうした損や母や妹への仕送りや彼女らへ多くの贈り物をしていたこと、ユダヤ人だった彼はイスラエル建国の際にかなりの献金をしたことなどがあって戦後に母国スイスに戻った後はそれほど蓄えもなく、食料品のセールスをしながらつつましい暮らしをしていたようだ。調理場に戻りたかったようだが、20年欧州料理界の第一線から離れていたということもあって、最先端の技術から遅れ、またヨーロッパの料理人としては引退を考えてもおかしくない年齢と言うこともあって母国で再び調理場に戻れなかったようだ。
 弟子の馬場に零した死ぬ前にもう一度日本にいって皆に会いたいと零したことに胸を疲れ、ワイル再来日のために弟子たちが尽力し1956年にワイルは再来日することになる。
 再来日時は弟子たちに大歓迎されて、テレビ出演や色々な料理店の訪問などと色々とスケジュールが入れられて、さまざまな場所をめぐった。その旅によって日本との絆を再び強め、日本の若い料理人のヨーロッパ修行の援助(修行先の店を見つけることなど)をすることになった。
 エピローグで、ワイルも憧れたの彼が若い頃世界最高峰の料理人だったエスコフィエも忘れられかけていることを書き、料理はその場限りの芸術だったからそうなったのだろうと述べ。また、エスコフィエの80年後に登場したポール・ボキューズはカラー写真技術が生まれた時代でそうした記録が残るようになったから今も人々に残っているのだろうということが書かれる。料理人は、特にカラー写真が未だない頃の料理人は、その性質上ワイルに限らず忘れられることは、ある意味宿命といったところか。