イギリス近代史講義

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)

大英帝国の興亡から現代日本を考える。世界システム論、生活史を切り拓いた西洋史の泰斗による画期的入門書。高齢者問題、「外見」の重視、昼寝よりも残業という心性―。拡大する世界システム下、イギリス民衆の日常生活を描く。


 『二一世紀のいまとなっては、単なる成功物語としてのイギリス産業革命論はありえません。反対に、かつてこの国が「世界の工場」であったことを無視して、「衰退論」を闘わせることも意味がありません。この二つの現象を同時に見る視点こそが大切なのです。』(P12)
 中世都市は『だいたいが顔見知りの世界』(P22)であるため、現代的な匿名性の高い「都会」はないという指摘は、考えたことのなかった側面だったのでちょっとハッとした。イギリスではそうした匿名性の高い都会は、16世紀のロンドンで発生。『ロンドンは一六世紀のはじめですと、人口数万人程度ですから、匿名性が高かった社会とは言えないかもしれません。しかし、一六世紀の終わりには一〇万をはるかに超え、よほど匿名性が高い社会になり、一七世紀の終わりになると五〇万くらいですから、ますます相互に顔はわからなくなってきます。』(P23)という記述を見ると、10万が都会(匿名性の高い場)の目安ということみたいだね。
 英国は17世紀から明らかに単婚核家族の社会で、当時の英国庶民は20代後半で結婚と他の地域に比べて明らかに晩婚。14歳前後から生家より少し上のところの徒弟(サーヴァント)となり、7〜10年奉公する。サーヴァントは独身が大前提なので、10代での結婚はまずなかった。そして7年ほど奉公すると市民権を得る。また市民権は営業権でもある。
 サーヴァントは雇い主の家族として扱われた。そのためサーヴァントが罪を犯すと雇い主が社会的糾弾を受けるのが普通で、実家の親が罰せられることはなかった。そうしてサーヴァントは雇い主の家族として扱われ、子供は生家より上のところのサーヴァントとなるため、「家族」の規模は階層が上になるほど大きくなった。
 サーヴァントは10年ほど親とはなれて暮らし、雇い主の家族として子供のように扱われるため、実家への愛着が薄まる。そして10年働いてある程度の財産は貯めたり、資格を得たりしている。そのように彼ら、彼女らは親元に帰って同居せずとも少しは基盤があり生活していけるため、新しい家族を作った。
 そうした生活サイクルのため、元の親の家は高齢者夫婦もしくは独居老人となる。そうした事情から、イギリスの近世社会に独特の救貧問題が発生した。
 『ぜいたく禁止法は、中世から近代にうつっていく近世という時代に、中世の身分秩序が崩れていくのを止めるために、世界中の国で出された法です。これがイギリスでは、世界で最初に全廃されました。』(P52)1604年ジェームズ1世が全廃。しかしそうしたぜいたく禁止令が、そうした時代に特有のもので、また世界中で出されていたとは知らなかったわ。
 イギリス近世都市では市民権保有者は、人口の半数以下であることが多かった。
 16世紀終わりから17世紀の始めごろに、ロンドン社交季節がはじまる。その時期には地方のジェントルマンが何日かロンドンに出てきて社交界が開かれる。
 本来のジェントルマン的価値とは農村的なもので、それが一番上等とされていたが、いつの間にか都市の生活文化が優勢になり、ジェントルマンも都市の生活文化を取り入れるようになる。
 『一八世紀までのニュータウンは社交都市に典型的なように、公園があったり、遊歩道ができたりしましたので、都市はきれいで、楽しいところという一般的なイメージがありました。』(P78)しかし19世紀にはディケンズ的なコークス・タウンのイメージに変容する。
 かつては多くの賃金を払っても労働者は生活レベルを維持できればよいから、その文だけのお金があればそれ以上働かなかった。つまり給料倍になったら喜んでもっと働いて給料を貰おうとするのではなく、喜んでその分休んで自由な日を増やした。こうしたスタイルを経済学の用語で言うと「レジャー選好」というようだが、そうした人が社会の中の多数派だった。そのため賃金は低く抑えて働かざるを得ないようにして働かせるべきだとする学説が主流だった。しかし17世紀ごろに消費するものが多数でてきて、それまでのぜいたく禁止法の社会でなくなり、身に着けるものをよくすれば上流に見られるようになったので、賃金を多くすれば労働者はその分だけもっと働こうと思うようになった。そのためアダム・スミスなどはその変化を察知して、それまでの説(労働の報酬を低くすることが労働者を勤勉にする)とは反対の労働の報酬が高いことが労働者を勤勉にさせるという主張した。
 『近代世界システムは、いったん成立してしまうと、「中核」と「周辺」の格差、質的なちがいを教化していく傾向にあります・異質なものがひとつのシステムに組み込まれた場合、まったく対等に組み込まれるということはめずらしく、少し支配−従属の関係が生じます。いったんそうした関係が生じると、有利なものはますます有利に、不利なものはますますふりになっていきます。それと同時に、質的にますます差異がはっきりしていきます。』(P132)
 主な生産地と主な消費地が別の場所であるモノ(コーヒー、石油など)であるならば、それを扱って世界システム論がかけるというのは、へえ。
 ジェントルマンの家庭が没落したとき、次男や三男をどうするかといったときや、反対にジェントルマンになりあがろうという野心を持った青年などは植民地官僚となる。そのようにイギリス植民地体制は、ジェントルマン支配を安定させる装置として大きな意味を持っていた。他にも大英帝国、植民地を多く取ったことで世界的言語としての英語が話されるようになったという大きな利益が今も残っている。
 産業革命期、イギリスの地主ジェントルマンはもうからない道路、学校などを作る。一円地域の保護者としてのメンツから作る。後発資本主義国が、国家として意識的に行ったことを無意識に行う。それは経済合理主義は全く異なる発想。経済合理主義者がイギリスを埋め尽くそうが、産業革命は起こらならなかっただろう。ジェントルマンのような経済的損益を中心に考えない人たちがいたからこそ、産業革命起こった。
 女性や子供の賃金は明らかに低かったが、それまでも家内労働で戸主の監督の下で労働をしていた。妻や子供が単独で金を稼ぐようになり、戸主の家族に対するリーダーシップがなくなった。また『予想に反して、工場ができたようなところでは、子供がたくさんいる家は、労働者のなかでは比較的豊かだった。』(P203)『女性や子供が非常に悲惨だというのは、戸主であった男性の声で、本人たちはそんなには思っていなかったのかもしれません。これが、ひとつの基本的な考え方です。』(P203)ちょっと眼からうろこ。
 都市のスラム、国内での「中核−周辺」関係と捉えられるべきもの。例えば、当時スラムだったロンドンのイーストエンドは、マンチェスタの「周辺」だった。