ピスタチオ

ピスタチオ (ちくま文庫)

ピスタチオ (ちくま文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

緑溢れる武蔵野にパートナーと老いた犬と暮らす棚(たな)。ライターを生業とする彼女に、ある日アフリカ取材の話が舞い込む。犬の病、カモの渡り、前線の通過、友人の死の知らせ…。不思議な符合が起こりはじめ、何者かに導かれるようにアフリカへ。内戦の記憶の残る彼の地で、失った片割れを探すナカトと棚が出会ったものは。生命と死、水と風が循環する、原初の物語。


 この著者の小説を読むのは結構久々だけど、やっぱりこの作者さんの文章や表現は、うまくて心地良くて好きだな。
 他の著作でもそうだけど、自然との距離感というか受け入れ方がいいな。大仰な礼賛ではなく、自然体での自然への敬意や親しみを持っているのが伝わってくる感じで。
 主人公は「棚」という一風変わったペンネームで活動する文筆家。彼女の飼い犬マースの様子がおかしくちょっと気になっていた。
 そんな時、アフリカで会ったことのある知人の片山海里の著作のアフリカの民話に関する本を本屋で偶然に見かけて、久々に彼の名を思い出すことになる。そして連れ合いにそのことを話すと、彼に片山が既に没していることを知らされる。
 マースの診察で子宮にできた腫瘍があると知ったとき、彼女は失われたマースの子が現れたようだという「感じ」を受ける。棚は昔からそうした予言やビジョン、あるいはインスピレーションに近い「感じ」を受けやすい人だった。マースの手術が終わった後に、片山の本を読んだ棚はそこに書かれている「ダバ」がマースに入ったのではと考えてしまう。棚は片山の本で読んで目に付いたダバや洪水の話と現実の出来事とが同期している印象を受けた。そのため彼女は少し前に話を貰っていたが保留していたウガンダへの取材を行こうと気持ちが傾く。その後、ウガンダ行きのために知り合いに連絡を取ると片山海里と取材にいった鮫島や現地ガイドも亡くなっていることを知り、片山が取材していたという超自然的な存在の影響もあるのではという思いがわく。
 そしてその後、ウガンダ渡航した棚は、死んだガイドの弟にガイドをしてもらい、ウガンダ取材と同時に、片山が回った呪医のところへも行く。そしてある呪医を訪れた際に、片山とも親交がある知人の三原と会う。
 片山は死の前、その呪医ダンデュバラのもとで修行をしていたことを知る。ダンデュバラは棚が片山のジナンジュを連れて戻ってきたと話す。そして片山とも生前親交あって、呪医としての彼の最初のクライアントで行方不明の双子の妹を探してもらおうとしたナカトを改めて紹介する。彼のジンナジュはそれを教えてくれるのはキジャニ(緑色)がくるとしかいわず困っていたが、片山はふとミドリ(棚の本名)かもとぽつりといい、そして帰国前に日本人のミドリが来るかもしれず、その人が教えてくれるとナカトにいって片山は帰国し、その後死亡した。
 ナカトには、離れても感じある感覚が妹とのあいだであったので彼女が既に死んでいるということはわかっていた。だから長く妹を見つけるための人、キジャリ(ミドリ)を彼女は待っていたが、ついに待ち人きたる。
 棚は何かに導かれるようにしてウガンダへと来たが、ここでそうした一つの物語が見えてきた。そうして棚は民話的・民間信仰的な物語に入り込むことになる。
 そしてナカトや三原と同行することになる。
 『患者が、というより、患者と、患者のジンナジュが、本当にほしがっているのは、ストーリーなんだって、カタヤマはよく言っていました。特に人の恐ろしがる病の場合は。なぜ、自分がその病気になったのか、納得できる物語がほしい。患者がいよいよ助からないとなると、カタヤマは、まるで依巫にでもなったかのように、その人の一生を謳い上げるようなストーリーをつくって、訥々と話して聞かせるんです。現地の言葉で。カタヤマの言葉は、拙いものだったけど、力があった。そうすると、患者は本当に満ち足りた顔になる。見栄のためじゃない、死者には、それを抱いて眠るための物語が本当に必要なんだ、って、言ってました。』(P274)この挿話はなんか好きだ。それに、「それを抱いて眠るための物語」という言葉も格好いい。
 さまざまな偶然での知り合いとの邂逅や思わぬつながりが続いて、ナカトの長く凍り付いていた離れ離れになったあとの妹の姿を知る人とであう。
 そうしてナカトは棚と行動を共にしていた。そうすると、棚にあるとき「啓示」のようなものを感じ、ナカトの妹キジャニが近くにいることを感じ、発見に至った。本当に導き手だった棚への驚きと発見の劇的さもあって、このラストシーンは非常に印象的だ。
 そうして本編が終わった後に、棚が書いた短編が挿入されて話は終わる。