中世ヨーロッパの都市の生活

中世ヨーロッパの都市の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの都市の生活 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

中世、城壁が築かれ、都市があちこちで誕生した。異民族の侵寇や農業・商業の発達はそれに拍車をかけた。一二五〇年、シャンパーニュ伯領の中心都市、トロワ。そこに住む人々はどのような生活を送っていたのか。主婦や子供たちの一日、結婚や葬儀、教会や学校の役割、医療や市の様子などを豊富なエピソードを盛り込み描く。活気に満ち繁栄した中世都市の実像が生き生きと蘇る。

 冒頭のシャンパーニュ伯爵の系図を見ると、時代的に寿命が短かったから当然でもあるけど、領主となった時にはまだ20代前半の人が多いことには思わず目を見張る。
 この本では1250年のトロワという定住人口1万人の都市を具体例として、当時の都市での諸事を語っている。この当時のトロワは遠隔地商業で栄えていた。ちなみに当時の人口が1万人以上の都市は、南ヨーロッパ(特にイタリア)には1万人以上の都市は数多くあったようだが、北ヨーロッパには10個あっただけ。また当時のヨーロッパ最大の都市はヴェネチアで10万人、ちなみに北ヨーロッパ最大の都市であるパリで5万人の人口。ただ、東ローマの都市については言及されていないのでおそらくカトリック圏に限定した話だと思いますが。
 10Cにヴァイキングが襲ってきたことで都市はローマ時代の城壁を直したりするなどをして新たに防御を固めなおしたが、そのとき城壁で防御を固めた都市は「ブルグス」などと呼ばれ、そのブルグスに住んでいた人は「ブルジョア」などと呼ばれた。ブルジョアの語源ってそんなところから来ていたのね。
 しかしトロワを領有していたシャンパーニュ伯の領地は広大だったが、その領地はフランス王、ドイツ皇帝、サンス大司教、ランス大司教、パリ司教、ラングル司教、ブルゴーニュ公から手に入れたものということだから、そんなに色々なところに仕えているのか。今まで色んなところから領地を貰い仕えていたといってもせいぜい2、3人かと思っていたが、どうやら侮っていたようだ(笑)。
 12世紀当時のヨーロッパの都市の規模はそのほとんどが人口2、3000〜1、2万の間。
 当時のトロワの地図が見開きで載っているのはいいね。こういうのを見ると少し胸が高鳴るけど、主要な建造物の名前しかないのが残念。大体でいいから、どこにどんな風な店があったのかについて示してくれたら最高だったんだけど。あと、本文中を見ると通りの名前も職業の名前が付けられたものが結構あるようだから、その通りの名前についての訳もほしかったわ。しかし地図を見ると主な建造物ということで教会とかの建物が多くなるのは仕方がないし、中世は教会が強かったというのは知っていたけど人口1万人の都市に大聖堂1、教会11、修道院7という数を見ると思っていた以上に多いので驚いてしまう。
 都市に住む商人(や職人)全てが宣誓して参加する「コミューン」があり、そのおかげで『人々は都市に住むだけで収穫物の上納、城の修理、羊の糞の提供、といった封建制度化の義務から自動的に逃れられた。(中略)年ごとの税を払うことと引き換えに、都市の住民はその他いっさいの支払いから解放されていたのである。』(P34)こういった都市の特別性についての記述を見ると、より一層都市のことが知りたくなってくるね。
 シャンパーニュ領では年に6回大市が開かれており、市への道は近隣領主との条約などで安全が保たれており、積荷を強奪されたら、その土地の領主が補償をしなければならなかった。また『一二四二年にロディとパヴィア間の本道で隊商が強盗被害に遭った事件を見ると(中略)強盗たちがピアチェンツァの人間だと判明したら、被害に遭った商人たちは大市監督官に犯罪行為を報告し、監督官はすばやく行動を起こした。被害の弁償がおこなわれるまで、ピアチェンツァの商人を大市から締め出すと迫った』(P300)ということが行われていた。そして借金踏み倒しや詐欺についても、『トロワの城壁を越えて遠くまで追跡され、ほかの大市に顔を出そうものなら、まず逮捕は間違いなかった。それだけではない。フランドル地方や北フランスの都市ならどこでも捕まる可能性が高く、そのうえもし当人がイタリア人なら地元に帰るのが一番危険だった。「該当者の逮捕に協力しないなら、同郷人に報復する」と大市監察官から圧力がかかるからである』(P299)というように詐欺や借金の踏み倒しなどについても厳しい追求がなされるなど、市への行き来だけでなく、市での取引についても安全を保障していた。
 当時は窓ガラスがないので、窓には油を塗った羊皮紙で閉じられていたということは、当時のヨーロッパの窓は障子みたいなものだったのか、今までガラスがないなら木の扉とかで開け閉めしているだけかと思っていたので驚いた。ただ、冬の寒さなどの理由があるのだと思うが、窓が小さかったようだから日本の障子よりもずっと小さくしか光を取り入れられなかったようだけど。
 そして13世紀当時のヨーロッパでは裕福な市民の家でもカーペットを敷くことは稀で、床には藁などを敷いていたというのは、家の中においては藁なんて寝床を作るために使うくらいだと思っていたので、それ以外でも使われていたとは全く知らなかったので驚いた。何でわざわざ藁をとちょっと思ったけど、たぶん汚れが藁につくようにして掃除を容易化させるためかな。
 また当時のヨーロッパでは木組みの技術がなかったため(それが出来るようになるのは更に2世紀後)、食器棚などは厚板が裂けたり反ったりした。その時代に出来なかったのは遅いと思ってしまう。しかし子供たちがビー玉で遊んでいるのを見ると、日本ではガラスが貴重品でなくなったのは幕末とか明治あたりの頃だと思うので、そんな遅いと思った感覚を思わず恥じる。そして技術の成熟には偏頗なところがあるのだなという実感が強くなったよ。
 裕福な市民の食卓(普通の市民にも当てはまるかは不明)では、大広間の名がテーブルに大判の布が掛けられ、片側に座席が用意された。ああ、有名な「最後の晩餐」の絵って、この当時の中世の食卓がモデルになったから、ああやって一方向に人が並んでいるのかとこれを見てようやく気づいた!(たぶん。ただよくよく考え直せば、ずっと前にテレビでそんなことを聞いたような気がしなくもないが)今まで各人を前面から描くための都合上ああいう構図をしているのかと思っていたよ。
 しかし大きなボウルに入ったスープかシチューは横の人と共同のものでそれを2人で一緒のスプーンで食べ、またコップも隣の人と一緒に使うというのは現代からみたら不衛生きわまりないから引いてしまうわあ。
 あと注に「本書に登場する日用品の価格のほとんどは、ヴィコート・ダヴェネルが一二〇〇年から一八〇〇年にかけての西ヨーロッパの価格・賃金を調べ上げた壮大な記録から引用したものである」(P87)と書いてあるので、それがまとめられているものがとても読みたくなってきた!そして同時に日本でも中世のそうした価格について調べ上げた本はないのかなあ、あったらぜひ読みたいのだが。他にも141ページの注に1292年のパリの職業とその職に付いている人数を直接税台から、主なもの数十個をその職名と人数が羅列されているがそれを見るのは当時どの職業が多かったのかが分かりかなり興味深い!
 しかし裕福な市民の家の正餐のメニューを見ていると、薄いスープ、中身の多いスープ、シチュー、肉のロースト、魚料理と続き(続き?)、その後セイバリーという食後に出す塩味の料理、そしてフルーツか焼き菓子、ウエハースと思っていた以上に豪華なものだな。もちろん大きな都市の裕福な市民であるという前提があるにしても、貴族でもないのにそんなに豪華な食事だったということは意外だった。
 子供が生まれたときに男なら2人の代父と1人の代母、女なら2人の代母と1人の代父が選ばれ、その代父母はかなりの贈り物をするのが常識だったようだが、代父母が生まれたときに定められているというのは知らなかったし、また日本では烏帽子親子くらいしかそうした仮の親子関係みたいな例は知らない(それしか例を知らないのは、僕が無知なだけだろうとは思うが)ので、複数人の代父母が初めから定められるというのはちょっとした驚きだった。
 しかしそれまで純粋に都市にしか足場を持たない人たちだと思って読み進めていたが、裕福な市民は「小規模な農場1、2ヵ所」(P105)を持っている人も多かったようだから、市民と言っても地主とかそういう人もいたのか。
 「終油の秘蹟」が行われると教会は死んだと見なしたため、その秘蹟後に回復した人は『その後たびたび断食し、裸足で生活しなくてはならず、妻と二度と性生活を営んではならなかった。』(P111)ということは知らなかったわ。
 粉ひきは景気が悪いときは、魚を釣ったりうなぎをやりで突いたりしていたという小エピソードはちょっと面白いね。こうした微細なその職業に関するエピソードはその職業についてのイメージに膨らみが増すから好きだよ。
 『中世では誓いはすべて聖遺物に対しておこなわれた』(P133)というのは、神でなく聖遺物に誓うというのと、聖遺物に対して誓うということの二重の意味で吃驚した!
 ユダヤ人の金貸しは政治的立場の弱さから権力者に借金を踏み倒されやすく、また他に貸し手の居ない借り手を相手にしていたということもあって、最も高い利子をとっていたということだが、そうやって高い利子をとっていたということが(そもそもは借りる側に信用がないのが原因であるのだが)ユダヤ人が悪どい金貸しというステレオタイプが出来た理由かな。
 裕福な市民の尊称である「氏(シル)」が、彼らにとっての「貴族の称号」だったとあったが、シルという市民の尊称があったとは知らなかったわ(駄洒落じゃないよw)。
 手術の際に麻酔として『海綿をアヘンとマンドレーク(ナス科の薬本)に浸し、かんそうさせ、それを熱湯につけて蒸気を吸入する方法をルッカテオドリックは紹介している。』(P166)一般的ではなかったと思うが、そんな蒸気で吸入するタイプの麻酔がこの時代からあったとは知らなかったので衝撃!
 教会の学校でラテン語の勉強をする際に、ローマの詩人(オウィディウスウェルギリウス)などの作品を毎日覚えることも大切だった。またマクシミアヌスの作品のような異教的、世俗的な色のある作品も修辞の技法を勉強するためにつかわれていたとは驚き。今までそういったものは完全に排斥されていたと思っていた、でも、ルネサンス前夜と考えれば、ルネサンスの土台はそれ以前のこの時代にもあったはずだからそういうことを学校で勉強していたのもそう不思議ではないのかな。
 無理に自白させようと拷問することすらなく、証言を聞くだけで十分とした(裁判を審理する)代官も多かったというのはちょっと唖然。拷問による自白という余計な苦しみを与え、嘘をつかせるプロセスがなかったのを良かったと見るべきか、証言だけで直ぐ絞首台に行かせる命の軽さを嘆くべきか。