渡辺京二傑作選1 日本近世の起源

渡辺京二傑作選? 日本近世の起源 (新書y)

渡辺京二傑作選? 日本近世の起源 (新書y)

内容(「BOOK」データベースより)
日本のルネサンスともいうべき可能性をはらんだ室町後期の社会的活力を、血の海におぼれさせて出現したのが反動的、専制的な織豊政権ひいては徳川国家であり、日本の近代への胎動は徳川体制の下で窒息させられたという説はなぜ人口に膾炙したのか?戦後史学、とりわけ網野史観が流布させた戦後左翼の自由礼賛・反権力思考による錯誤を批判し西欧近代を民衆意識の最も根源から乗り越える。

渡辺京二さんの本を読むの初めてだが、とても活き活きとして魅力的な歴史観ですごく面白かった。網野史観を批判しているけど、それより更に魅力的な歴史観を提供してくれる。色々学ぶところが多かったが、多すぎてちょっと最後まで集中が途切れて、流し読みになってしまったとこがけっこうあるので、そのうち再読しよう。歴史の本でいまいち読み取れず再読しなきゃと義務的に感じることは結構あるが、積極的に再読したい!と思うのはめったにないのだが、この本はそのめったにないほう。渡辺さんのほかの本ももっと読みたい。『逝きし世の面影』は既に買ってあるので、次はそれを読もう。
戦国後半から末期あたりについての著述が多かった。
『少なくとも十八世紀までのヨーロッパ人は日本を、ヨーロッパとは異質だが独特の美質を持った対等の文名とみなすのがふつうだったのである。』(P19-20)幕末・明治ごろの印象が強いからそれは意外だ。
中世を武士と百姓の対立で見るのは間違っているという指摘は新鮮だ。
アジールに逃避せねば一身を保全できないような状況から、徳川期の女性はすでに免れていたのであり、その間の事情は女性のみならず平民一般について同段とみなすべきである』(P30-31)徳川期のアジール、すでに必要性が低下していたからその機能が縮小された。『無縁・公界・楽』や『寺社勢力の中世』で感じたイメージが一変した、目からうろこの指摘。
『「ポルトガル人の重要なる根拠地たるマラッカ及び媽港に於ては、事実に於て多数の日本人がそれを防備する忠実な戦士になってゐた」マカオからゴアにいたるポルトガルの通称拠点の防衛には、彼らは欠かせない戦力だったのである。』(P80)
戦国時代の日本人奴隷輸出は神話というか、なんとなく嘘という気がしていたが、一応あったのか。ちょっと吃驚。ただ、イエズス会の議決書では十六世紀日本の下人も奴隷という風に解されていたように奴隷という概念にも幅がある。
『掠奪において一般住民が単なる被害者ではなく、それを遂行する主体であったのと同様に、放火・稲薙・麦薙においても、一般住民は天から降ったような災難に泣くたんなる被害者ではなかったのだ。』(P90-91)
惣村『犯人は入れ札(投票)によって特定された』(P106)酷いと感じるけど、こういう方式での犯人特定ってどのくらい普遍性があるものか気になる、世界中にありそうな気もするが例が「アメリカ西部劇の世界」しかないから。
『「喧嘩などにより人が殺された場合、被害者の所属する集団は加害者の属する集団に下手人を引渡しを要求し、この下手人の差出によって和解するという慣習」であるが、この場合差し出される人間は実際の犯人でなく、その犯人の属する集団の成員なら誰でもよかった』『「中世の村はイザというときの身代わりに備え、村の『犠牲の子羊』を、ふだんから村で養っていた様子である。』(P126)『子孫を村の正式の成員として遇す』ことと引き換えに身代わりになるもの。残酷だなあ。
鎌倉、自身が発令した幕府法も発令された法律の存否を確信できなかった。変なの、と前から思っていたが、ヨーロッパ中世も同じで『「成分の法がつくられた場合にも、その保管はきわめてなげやりであった。例えば、国王の書記局においてすら、前代の国王がどのような勅令や文書を発していたかはもちろんのこと、現国王の時代に入ってから出さえ、いかなる文章が発せられたかがすでにしばしば確認困難な状況にあった」』(P143)日本だけが、法の管理がルーズだったわけじゃないとわかりなんだか安心(笑)
『無縁・公界・楽』で取り上げられた武田氏の正昭院をアジールに指定したのは統制するためでなく、以前から菩提寺だった正昭院を紛争の場にしたくないためで、正昭院のアジールが否定しにくく統制するため菩提寺にしたのではない、むしろ、武田氏が無縁所に認定したおかげでアジールの機能を回復した。統制するために菩提寺というのをつっこんでいるが、それも言われてみれば確かにそれでどう統制できるのかという感じだし、こっちの解釈の方が納得いくなあ。
堺の平和『堺自身が巧みな外交的術策と武力によって、積極的にフウイウングたる特権を防衛したからである。実際、平和領域たる特権を周囲に認めさせなければ、いかなる永続的な貿易利益がありえたろうか。』『堺の平和とは結局、このような市民どうしの自力救済的な暴力行使をいささかも排除するものではなかった』(P184)イメージと違うなあ、実体。
『都市は「最高水準の自由と最も強い隷属」とが平地される場所だったのだ。』『都市と農村は対立するものではなく相互に浸透しあう存在』(P187)
中世都市、『「都市が中世の支配秩序の中に組み込まれていたことが再認識され」、「発達した自治機関は必ずしも都市的集落の要件ではないと考えられるようにな」り、さらに「中世盛期の都市発達については、領主階級の果たした役割が大きいことが強調されるようになった」』(P188)都市が市民的・民主的で領主制社会と対象をなす存在との学説は過去のこと。
ピューリタン革命がいかに宗教的エートスに導かれようと、誰も宗教戦争と呼ばぬのと同断である。』(P260)なるほど。
『仮に門徒が、教団が説くような如来大悲と始祖親鸞への純粋な報謝行っとして、戦い死んで行ったとしても、それを無条件に賛美することは許されない。それが許されるなら、天皇への恩徳と信じて戦場で死んでいったものたちも同様に賛美されてしかるべきことになるからだ』(P272)今までなんで門徒が、強制力がなさそうなのに、教団の言うとおりに戦闘しているのか不思議だったが、そう考えればわかりやすい。
バテレン追放令の第三条である。この門言が従来、農民を土地に緊縛するための法令と解されてきたのはおどろくべきことといわなければならない。これは藤木久志のいうように、「領主の非法から村むらを護るという、秀吉の新しい社会づくりの基調を表す言葉」なのである。』(P298)