大聖堂・製鉄・水車

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

西洋中世の新たな実像を描いて定評ある著者による、テクノロジーの中世史。軍事、建築、交通から、織機や農具など、あらゆる具体的なモノの変遷と、社会や暮らしの変化をたどる。「停滞の元凶」とされる教会や修道院が時に技術革新の推進力となり、また、東方の文化を吸収しつつ千年にわたって緩やかに進行した技術革新が、近代の「革命」を用意していく。


 この著者たちの本は中世の本を長年書いている人たちのようだけど、歴史学者ではないので過度に難しすぎない読みやすく、それだけど多くの知識を得られるという、個人的にはそうした歴史読み物はかなり好きなので、今後この人たちの本を文庫化しているものについてはどんどん読んでいこうかなと思っている。
 大工道具のカンナはローマで発明されたとは知らなかったがちょっと意外だった。
 あとローマの橋の構造では橋脚が洗掘(砂を巻き上げる流水による侵食)が起こりやすいため、それらの橋には長く持ちこたえたものもあるが、多くは洗掘によって崩壊しているというのは、ローマの建造物はなんとなくほとんど完成形で半永久的に残るんではないかと思うほど堅牢という印象があったから多くは崩壊したというのはちょっと意外。だけど、多くってだけで2000年前のがまだ残っているところも割合あるというところに驚かされる。そしてやはり建築はローマ時代が凄かった印象があるから、中世に橋の構造もより洗掘が受けづらい、壊れにくいものが新たに考案されたというのもかなり驚いた。
 ローマは「蛮族」から石鹸、鋼鉄、木製の樽などの技術を取り入れた。
 農業は中世に二度の大きな革命的進歩を遂げた。まず一度目の農業革命ではハーネスが改良されたおかげで、力が馬の気管ではなく馬の胸全体にかかるようになった結果従来の3倍の牽引力を得た。そして馬鍬が普及した。そして第二の農業革命では新式の馬具を使って重い鋤を引かせて耕し、そして輪作や休耕地というローテーションを取り入れた。この時、畑はこうした重い犂を引かせるからUターンする回数が少ないほうが良かったので四角い区画ではなく細長い区画となった。耕作地が細長くなったというのは言われれば納得だけど、農業といったら四角い水田というイメージがあるので、細長い耕作地というのはちょっと意外だった。
 ヨーロッパの城は石造りのものだけではなく、土塁と囲い地様式の城が中世盛期まで存在した。
 ノルウェーからでたヴァイキングはフランスやスペイン沿岸に、デンマークからでたヴァイキングブリテン島や北海沿岸低地へ、スウェーデンからはドイツ、リトアニア、ロシアの各地にいたった。それらのヴァイキング(その北欧の3国)は民族・文化的にはほぼ同じ民族だったとは知らなかった。
 中世において(タイトルにもある)水車とか大聖堂がどう新たに改良されたかなんてのが、結構文章で詳しく書いてあるけど、さっぱりわかんないや。こういうのは動画で見ればなるほどと思えるのだろうけど、文章ではさっぱりイメージつかないわ。そうした機械がどういう力が加わってどこがどう動くかなんて、イラストで形が書かれていてもよくわからないのにイラストもあまりないとなるとちんぷんかんぷん。
 『一般的に信じられているのとは反対に、中国人は火薬の使用を花火に限定していたわけではない。火薬はすぐに武器に取り入れられ、西暦九五〇年頃からは精巧な火箭や火砲へと進化していった。』(P130)以前から火薬を武器に使っていたことも知っていたはずだけど、同時に火薬を花火に〜という話についても知っていたが、頭の中で両方の話が本当だ思って並存した状態だったことにこの文章を見るまで気づかなかったわ。
 イスラームの音楽家が最初の弦楽器を考案して、リュートはそこから生まれたというの事実は今までリュートはヨーロッパのものだとなんとなく思っていたので意外だわ。
 粉引き水車が普及したのは単に省力だけではなく、領主の製粉所で自由でない小作農には粉挽料(小作農など不自由民には13分の1が一般的で、自由民に対しては24分の1という特別の粉挽料だった)を支払って挽いてもらうことを義務付ける法令が出され、それが金になったためという理由もある。またイスラーム世界で水車がヨーロッパほど普及しなかったのは適した川が少なかったため。
 聖人たちの遺物を包むのに絹が必要だったから、教会はイスラム圏から絹を輸入していていたが、『ときおり不適切なアラビア語が記事に書き記されていた』(P165)。例えば、聖カスバートの遺体を包んだ帷子には「アッラーのほかに神なし」、聖ジョゼの帷子には「アブ・ヌマ・ハイドル司令官に栄光と幸運あれ。アッラーが長命の恵みを授けたまわんことを」とアラビア文字で書かれていたという事実には、その聖人にはわるいけど思わず笑ってしまう。
 1070年代にノルマン人はシチリア島を征服して、シチリア伯ルッジェーロ2世の命令で、世界全体の地図と、世界を70地域に分けた地域別の旅行用地図とで構成されている「世界利各地を行き来したいと願う人の喜び」(あるいは単に「ルッジェーロの本」と呼ばれる)が出来上がったが、それはアラビア語で書かれて、ラテン語に翻訳されなかったというのは、ルッジェーロはノルマン人なのにアラビア語でかかれて翻訳されなかったってのはよくわからないが、彼はアラビア語が読めたということなのかな。しかし11世紀にそんな本が書かれていたという事実はなんだかワクワクする。
 インドから輸入されたインディゴは青色染料ともなるが不溶性のため、絵具に使われるだけでヨーロッパの職人は使い方がわからなかった。しかしヴェネツィアの染物屋が、インドで実際に見た染料処理の工程を記したマルコ・ポーロの書を参考にしてその問題を解決し、インディゴを染料として使えるようにしたというのは面白い。まさかマルコ・ポーロの本がそんな風に役立つとは予想外だわ。
 ヨーロッパが紙を作るのに麻布などのぼろを使っていたのは、原料となる木が少なかったからという理由があったのか。
 13世紀の都市ではローマ式の公共浴場も珍しくなかったが、混浴が原因のスキャンダルが続いたため、14世紀になると多くの浴場は閉鎖された。13世紀までローマ式の公共浴場が珍しくなかったというのは甚だ意外感がある。
 中世の都市では水も湧き水や井戸、貯水槽では足りないので、町の外から水を買い入れていたというのは、水くらい都市内で充足していたと思っていたので、ちょっと驚いた。それから中世の都市では高級住宅地やスラム地域が明確に分化していたのは、イタリアの大都市など限られたところだけ。
 初期の石工の親方は軍隊に匹敵する人数(何千人といった規模)の職人や労働者を従えていて、社会的地位が高く尊敬された存在だった。あと、「ブーマー」って渡り職人って意味だということだが、記録でしか知らないけど昔プロ野球にいた「ブーマー」という名字(だかはよくしらないけど)もそういう意味なのかな。そうなら日本にまで来たというので、渡り職人という語源はぴったりだと思うから、ちょっと面白い。
 13世紀末には下火になったがそれ以前は大聖堂の建築において高さにめぐる競争のようなものが行われていて、ストラブールに142メートル(現代の建物の42階分)に達する高さの尖塔が作られたというのは、その時代にそんなに高い建物があるとは想像だにしなかったので驚いた。
 中世盛期、荷馬車は一日に22〜35km進み、陸上運送費は80キロにつき、羊毛ならば1.5%、穀物ならば15%だった。そして輸送の大部分を担っていた荷役用の家畜はもっと一日に移動する距離が長かった。
 改良されたコグ船という帆船や大ガレー船と呼ばれるがガレー船ではなく港を出入りするときに櫂を使う帆船が登場したが、旧式で積載量が少ないガレー船は寄稿する先々で陸に上がって食事し、熟睡し、その町を観光ができるため巡礼者に人気があったので完全に消え去ったわけではない。
 グーテンベルク印刷機を作ってから1500年までに、様々な著作が4万あまりの版で出版され、冊数で言うと1500〜2000万冊に及び、しかも半数は宗教書以外の本だというのはその量の多さと宗教書以外の本がかなり出版されていたことには思わず目を見張ってしまう。
 腐りかけの肉を誤魔化すために香辛料を多用したという説があるけど、金持ちは家に池や貯水槽がありそこに食用の魚を買っていたし、家禽や豚を待ちまで連れてきて、そこで食肉処理されるのを購入できるから金持ちが腐りかけの肉を食べる理由がないと説明がなされているのを見て、そりゃそうだと納得した。