中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像

中世島津氏研究の最前線 (歴史新書y)

中世島津氏研究の最前線 (歴史新書y)

 「はじめに」島津氏の初代の惟宗忠久島津忠久。『忠久は、源頼朝の信頼厚い比企氏との血縁と、摂関家の家司という立場から、近衛家領であった島津層の下司・惣地頭に抜擢されたとみられる(井原:一九九七、野口:一九九四)。
 なお、”源頼朝落胤説”は、十五世紀前半成立の「酒匂安国寺申込状」という島津本宗家の元重心が記した資料が初見である。これと同時期の応永三十二年(一四二五)三月、島津本宗家の当主貴久(忠国。一四〇三~七〇)は、志布志大慈寺(鹿児島券志布志氏)宛の寄進状に、「源貴久」と署名している(大慈寺文書)これが、島津本宗家による源氏姓使用の初見であり、”源頼朝落胤説”の登場と結びつけて考えられている。
 この時期に源氏姓を使用するに至ったのは、「中世武家社会独自の正当性の論理である「源氏将軍観」の影響」(水野:二〇〇八)とも、「島津氏が(単なる源氏ではなく)足利一門だと喧伝し、それを内外に承認させることで他氏との間に別格化を図りたかったから」(谷口:二〇一六)とも指摘されており、いずれにせよ、島津本宗家が室町幕府儀礼的秩序に主体的にかかわろうとした結果とみられている。』(P10-1)
 「島津義弘は、兄義久を超える実力者だったのか?」
 天正十三年(一五八五)義久は義弘にある役職を与える。2000年代まで「守護代就任」と呼ばれていた出来事だが、2010年代になって新名一仁氏の研究から『戦国末期(一六世紀末)の島津義弘の役職は、「名代」として捉えなおされるようになったわけだが、そこで義弘が有した権限についても具体的に明らかになりつつある。』(P76)名代は守護代よりも権限が広い。
 『また同時に、島津氏は「御家之義」と称する密談を進めていた。そして義久の男子誕生を待つ意味も込めて、義弘を次期家督継承者に決定した(『上井覚兼日記』中、天正十三年<一五八五>五月十八日条)。つまりこのとき義弘は、当主義久から領国支配のための権力の一部を移譲されるのに加え、後継者としても指名されたことになる。そしてこれが、近世以降の編纂史料において、義弘が島津氏当主になったという根拠にされることがあった。
 実際には先に紹介した研究で明らかにされているとおり、ここでの義弘はあくまでも家督継承予定者であり、その後も義久が当主を名乗り続けた。さらには結局、島津氏が豊臣政権に包摂され、領国支配が新たな展開を見せる中で、義弘が当主になることはなくなったのであるが、少なくとも戦国期の義弘にとっては大きな画期となったに違いない。』(P73)
 「中世後期島津氏は、室町幕府・朝廷に何を求めたのか?」
 摂関家近衛家との関係。島津氏の家名の元となった荘園島津層の領主が、藤原氏摂関家であった。『中世後期には、京都から遠く離れた南九州に位置する島津荘の実態は既に失われ、領主近衛家への貢納も途絶えていたと考えられるが、島津荘領主が近衛家であった事実が完全に忘却されていたわけでもなかった。』(P85)そして『島津氏と近衛家との関係が密接に強化されるのは、十六世紀中期の島津相州家による本宗家の家督簒奪以降である。』(P86)
 『本来島津氏は、鎌倉期に既に本姓の惟宗に代わり藤原姓を用いるようになっていたが、天文十四年(一五四五)に近衛稙家(一五〇二~六六)が公卿日野資将(一五一八~五五)を島津氏領国へ下向させて交渉を行って以降、近衛家と島津氏は藤原姓を媒介とする一種の犠牲的同族関係を取り結んだ。(中略)戦国期の島津氏、特に相州家にとって近衛家は、藤原姓を介した擬制的同族関係上の宗家として、自身の権威を保障する重要な存在であった。』(P87-8)