大飢饉、室町社会を襲う!

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

内容(「BOOK」データベースより)

慢性的な飢餓に直面し、生と死の狭間で生きていた室町人。そこに巨大飢饉が襲いかかったとき、人びとはどうしたのか。現代にも通じる飢餓と飽食の残酷な構造をえぐりだし、室町時代の実相を描く。中世社会の雑学も満載。


 「喧嘩両成敗の誕生」が内容が濃いのに非常に読みやすかったので一気に著者のファンになってしまい、早速別の著作を読んでみたくなり、この本を購入。「喧嘩両成敗の誕生」と同様に読みやすかったということがあり、ほとんど1日で読むことができた。
 室町4代将軍義持の治世下では荘園制の解体が速度を弱め、武家と公家のパワーバランスの保たれたことで『在京する荘園領主たちもとりあえず安定的な収入がふたたび保障されるようになっていた』(P3)。しかしその安定期の中で起こった応永の大飢饉は社会を新たな局面へと否応なしに押し流した。
 ちなみに今までは室町時代は荘園制の解体期と位置づけられていたようだが、現在は応永年間あたりの荘園制を「室町期荘園制」と位置づける機運が盛んになっているようだ。そのあたりの時代を荘園制が再び安定した時代だったというのは、今まで一貫して解体傾向にあったと思っていたので意外だった。
 応永の外寇元寇は戦前の排外思想が反映された言葉で学術用語として不適切だから使用しないとしているが、その直後で倭寇は普通に使っているが、いくら自国のこととはいえ、同じ「寇」の字を使っているから意味的には視点は違っても同じようなものなのに、それはええのかい。用語の成立時期が違うのかな、当時から使っていたか、それともしばらく後になって使われるようになったか、みたいな?まあ、本題に関係ないからどうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけどね。
 応永の外寇での対馬襲撃時の船の数が京都に来るまでに実際の数よりも相当増幅して、更に朝鮮だけでなく明や蒙古が合同して出した船団で、それを「神風」が追っ払ったという話になっていたというように、情報が正確に伝わっていないことには笑えばいいのか、嘆息すればいいのか迷う。しかし義持が日明貿易を中断させたことで明から使節が来たが、交渉は決裂して明から来た使節が激怒して、将兵を派兵して朝鮮と合同して日本に送り込むという恫喝の言葉、あるいは捨て台詞、を吐いたという出来事が当時あった。それに以前の蒙古襲来の衝撃は強かったのもわかるから、なんとなく襲来してきた船団をそうやって大きく捉えたり、多国籍だと考えた理由もわからなくもないけど。
 応永の飢饉の数年後の話だが、京都の米商人が結託して、諸国から京都に運び入れる道を封鎖して米が入らないようにして『京都を人工的に「飢饉」状態にすることで、米価を意図的につり上げ、値が上がったところで自分たちが持っていた米を市場に投下して大もうけを企んでいた』(P41)ということがあったように、室町時代の商人がそうした経済感覚を持って金を稼ぐためには、意識的に飢饉という状況を作り出すという、外道なことでもするというところまで行っていたというのはちょっと驚きだ。
 中世では古米の方が新米よりも2、3割値段が高かった。その理由は古米の方がより水分が抜けているので炊くなど調理したときに膨張して、同じ量で新米よりも2、3割ほど量が多くなるのでその値段だったというのは目から鱗。実際に東南アジアや南アジアでは現在でも同様の理由で新米よりも古米の方が高い値段だという。つまり当時は食べるときの米の量がもっとも大事なことで、米の味という要素は値段に反映させるほど重要な要素ではなかったようだ。
 日本の中世の人身売買では多くの場合女性の方が高価で取引されていたとは、中世ヨーロッパでは労働力として男性の方が高かったという知識があって、どこもそうかと思っていたので、ちょっと意外だった。
 応永の大飢饉はその年一年だけの気候に問題があったわけではなくて、それに先行する数年の不安定な紀行があり蓄えが枯渇している状況にあったのが、その年(1420年)の大不作で止めを刺されて大飢饉になった。1420年は夏までは旱魃で稲の生育が上手くいかず、さらに9、10月には台風や長雨でせっかく育った作物にダメージが与えられた。
 荘園領主法隆寺は荘民が逃散したときに真っ先に守護に頼って事件の早期解決を依頼したというように、この時期荘園領主は守護勢力を用心棒的に利用していた。もちろん両者の緊張関係はあるけど、そうした対立が比較的穏やかだった。
 この時期の京都が20万戸の家数を誇る巨大都市だったようだが、想像をはるかに超えて巨大で驚いた。今までそんな4、50万といった規模の都市が出てくるのは江戸時代からかと思っていた。
 食糧不足が予測されても、利益を得るために生産地から食料を大都市に回して利益を稼ぐ者が出てくるので、生産地から先に飢餓が起こるという現象について何かの本でちょっと触れられていたのを読んだ記憶はあるのだが、なんだったっけ。そして飢饉が起きて、貧窮した人々は都市へと出てきた。室町時代には、飢饉→京都への難民流入→疫病流行という流れが飢饉の基本パターンだった。
 「老松堂日本行録」は応永の外寇が明と連合した攻撃だという疑念を晴らすために弁解にやってきた朝鮮の人の著作だが、その本の著者が、義持が父義満の13回忌を前に周囲のものが魚肉を断っているのを知って、それなら自分もと魚肉を断つとそれまで話を聞こうとしなかった義持がその話に感動して、義持はそれまでの態度を一編市長選の使節と対面することとなったというのは、父義満とは仲悪い印象だったから意外だった。
 義持の息子で5代将軍の義量は父に禁酒するように命じられているが、それは彼が大酒飲みというわけではなく、実はそれ以前の義持の禅宗など仏門への禁酒令の流れを汲み、そしてその後の麹専売制で酒造量を減らしたという禁酒政策の一環だったというのはなるほど。室町幕府は酒屋からの営業税を大きな財源としていたのに、そうした自らの基盤を切り崩す行為をしたのだから、義持が相当にその政策にいれこんでいたというのはわかるが、義持当人は大酒飲みというのは苦笑いしか漏れない。
 結果的には多くの米を使う酒造りを制限することで食糧確保策としての意味も持ったが、それはあくまで結果であって、そもそも仏門の禁酒令から始まったことからもわかるように宗教政策として禁酒政策を推進していた。大飢饉に先立つ不安定な気候の最中で、仏神への信仰は疫病や飢饉に有効な対策というのは当時共有されていた概念だったので、それを統治者として実践していたのだが、それが酒造りを制限するなど極端なことをやっていたので理解されず、またそうした行動をしても実際の収穫も回復しないということで、義持は孤独と焦りを抱いていた。
 そのため義持がそうした仏教理解で演出した父の13回忌で、朝鮮の使節が魚肉を自ら断った話を聞いて感動したのは、そうした孤独あってのことで、父に敬意を払われたから感動したとかそういった単純な話でもないのね。まあ、そのほうが仲良くなかった印象がある彼ら親子っぽいけど、まあ死後13年経って、その感情が同変化したかまではさっぱりわからないからこの時の父義満への感情がどのようなものかについてはわからないけど。
 大きな富を持つ有徳人は、相応の徳を社会に示す必要があると考えられていた。そのため飢饉のときなどに地域の有徳人が賦課を建替えて窮地を救うべきである、それが当然という考えが浸透していた。そうした考えが応永の大飢饉の後は、徳政にも及んで、徳政は為政者から民衆に一方的に施されるものではなく、民衆の側から蜂起までして要求されるものとなった。 11、2世紀の説話文学では盗賊が、そういう格好でもないのに公達を名乗って強盗を働いたり、あるいは海賊は乞食が、刀をちらつかせて威嚇しながらも、少しの食料を求めてという口上を述べていたり、あるいは取り囲んで車を掴んで離さずに衣の一つ二つを要求しているが、いずれも言葉遣いは丁寧で有徳思想に訴えるようにしているが、実態においては恐喝であるように、有徳思想は一種盗賊に一片の正当性を与えるようなものともなっていたとは知らなかった。しかしそうした盗賊のエピソードはちょっと面白いな。
 日本社会の村や町は室町時代に作られた。聞いたことある気がするけどすっかり忘れていた。