室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折

内容(「BOOK」データベースより)

3代将軍足利義満の時代に全盛期を迎えた室町幕府。その50年ほどのち、重臣による将軍謀殺という前代未聞の事件が起きる―。この前期の室町幕府、4代義持、6代義教の時代に焦点を当て、室町殿と有力守護層たちとの複雑で重層的な関係から室町時代の政治史を読み直し、幕府崩壊の一大転換点となった義教謀殺=嘉吉の乱に至る道筋を実証的に跡付ける。

 kindleで読了。
 義教は「籤引き将軍」や「万人恐怖の世」、「悪将軍」、「将軍此のごときの犬死、古今その例を聞かざる事なり」とかなり面白いフレーズがあって、興味深い存在だから、彼の詳しい話を読みたくてこの本を読んだ。
 1378年生まれの室町時代の僧侶満済の中の時代区分には上代、中古、近代があった。中古の終末が南北朝時代で、近代は足利義満の公武統一政権から始まる。
 室町時代の将軍(室町殿)と有力守護大名重臣)との関係は、絶対的な上下があって逆らえないというたぐいのものではない。室町殿も重臣たちの意向によって命令がなかなか履行できなかったり、不本意なことを呑まされたりもする。
 『本書では、室町幕府―守護体制という支配のわくぐみから脱して、一定の条件の下で、立場と野望とを異にする重臣たちと、彼らを一元的に支配・統括しようとする室町殿とのかかわりあいが室町政治史を織りなすタテとヨコの意図であるとの考え方に立つ。そのうえで足利義教政権の成り立ちをさぐり、その政権が嘉吉の乱で瓦解する理由について考えることにしたい。』(N275)
 義持の時代、上杉禅秀の乱では重臣の多くが与同して、赤松満祐の追討を命じても重臣たちは満祐の擁護に回って追討をするどころか宥免・幕府復帰のために手を尽くしている。そのような行動もあって、死に臨した義持は重臣が相談して自分の後継者を決めよと述べることになる。
 義教の政権は覇権(武力)によって支えられていた。『当時、義教の覇権強化への急速な高まりと重臣たちのそれへの対応への間に、ある種のズレが生起しており、そのズレは義教をいらだたせて「恐怖の世」とよばれるような社会状況を醸し出していた。』(N315あたり)そんななかで政権が抱えるさまざまな問題をさらなる覇権の強化によって解決しようとしたこともあって、将軍謀殺事件(嘉吉の乱)が起こった。そしてこの事件は義満以来の室町殿が約半世紀維持した政治構造を破壊することになった。
 死を前にした先代将軍の義持が後継者を重臣たちに決めるように述べた。そのように室町幕府重臣の力が強くて、彼らと上手く協力できなければ政権が回らない政権だった。籤引きで将軍となった義教はその状態から、将軍に専制権を持たせようとしたが結局失敗した。
 上杉禅秀の乱足利義満の弟足利満詮は兄の死後出家して、出家後は政治的活動はほとんどない。しかしこの時は持氏支持を表明して、持氏は将軍義持の烏帽子子であり、鎌倉を占拠していて教徒への謀反もしかねないと述べた。彼のその言葉で幕府が持氏支援することになった。
 京都将軍と鎌倉公方は対立しているので、それから考えると持氏支援は不思議に見える。しかし義満の寵愛を受けた息子義嗣が上杉禅秀と裏で結んでいたことが持氏を助けることになる。なぜなら義持は父への反発があり、また満詮も義満に妻を奪われている。二人のそうした義満への反発が鎌倉公方への支援をすることになる。
 足利義嗣は義持の8歳下の異母弟で、足利義教と同年齢。そして彼は上杉禅秀の乱においては京都の反義持勢力の黒幕的存在。彼は幼少時代に寺に入れられたが、応永十五年に政界デビューをして父義満の偏愛もあって四月の元服親王に準じた儀式を行って、従三位参議にまでなった。しかし五月に義満が急死。足利義嗣が父の寵愛を受けて表舞台に出てからたった数カ月で義満が死んだというのは驚き、もっと長い期間かと思っていた。
 上杉禅秀の乱が鎮定された後の事後処理。取り調べを通じて幕府重臣の多くが反乱側に与同していたことがわかった。しかし室町幕府体制は有力大名に支えられていたこともあって、処分するのも難しい。そのため義持は仕方なく取り調べに当たっていた寵臣、近習の富樫満成を切り捨てることになった。そのように当時の室町殿と重臣との関係は、将軍の敵に益する行為も場合によっては(この場合、罰するにしてもその範囲が大きすぎた)許さざるを得ないような、緩やかな主従関係だった。
 上杉禅秀の乱『一連の事件はその経緯からみると、まず関東で生起し、次いで京都に飛び火したかにみえる。しかし実は、事の発端は義嗣である』(N575あたり)。その陰謀で応永二十五年に死ぬことになる。
 義持政権の特徴。有力守護大名の連合政権の性格が強く、『山家浩樹は、義持の政治手法を「義持は義満と異なり、反対勢力の壊滅よりも、彼らを取り込んで政局を安定させることを選択した」と総括した』(N595あたり)。
 義持は三国守護の赤松総領が死亡した際の相続問題に介入して近習の赤松持貞に一国を与えようとしたことで、将軍と重臣層に亀裂が入る。そのため赤松持貞は自刃することになる。上杉禅秀の乱での富樫満成もそうだけど、寵臣も責任押しつけられて大変ね。赤松の件は本人の野心や欲も少なからずあっただろうけど、富樫の件はしっかり調査をしていただけだからなあ。もちろん、もしかしたらそれで大身の人間を追い落として褒美を賜ろうとしていたかもしれないという可能性は否定しきれないけどさ。
 義満の時代から『公家を家礼・家司として召し使う』。たしか平安時代摂関家もそうだったような。そう考えると平安時代の権門で、政治をつかさどり武力を持っていた摂関家と軸足を置く場所が武家と公家とで違うけど案外似ているのかな? まあ、なんとなくの思いつきですけど。
 上杉禅秀の乱後、鎌倉公方は上杉に与同した関東の国人たちを討伐していた。そのついでに京都幕府と通じている国人も討伐しようとしたために京都・鎌倉間の緊張感高まったが、翌年に鎌倉公方持氏の急な方向転換で収まる。それは義持の息子が死亡したことで、自身が彼の養子となって将軍職を継ごうとしての行為だった。しかしその申し出を義持が蹴ったので将軍と鎌倉公方との間の確執がさらに高まった。
 義持は死ぬ前に後継者選びを重臣にまかせた。そのことで重臣たちはなんとか将軍の意向を聞き出そうと腐心する。そして最終的に義持の兄弟4人の中から石清水八幡の神前でくじを引いて、選ばれたものを後継者とすることへの同意を得る。やっぱり鎌倉公方の持氏は嫌だったのだなということは伝わってくる。
 その義持没後の対応策を合議したメンバーの中に赤松満祐(嘉吉の乱の首魁)は含まれていない。
 将軍足利義教の時代。称光天皇の容体が悪くなったときに、伏見宮の王子彦仁を秘かに移動させた。その際、後南朝勢力に身柄を奪われることを恐れて警護をつけた。その警固を赤松満祐の配下が行った。そのように彼が将軍に就任して間もない段階では、赤松への厚い信頼があった。
 『政治的な去就が明確でなく、状況によっては造反さえしかねない大名たちを常に含んでいたところに、室町幕府の重大な弱点があったといえよう。』(N1260あたり)
 そうした大名をまとめなければならない管領は『「政治的・経済的利益よりも」「負担や損失の方が上回っていた事情」』(N1270)があった。そのため義持・義教期には管領職就任を渋ったり、早々に辞めようとするものが多かった。
 重大事件が起こると将軍は重臣たちの意見を聴取して、それを参考に幕府は意思決定をする。しかし誰に意見を求めるかは将軍が選べる。
 永享五年から七年にかけて幕府重臣の死が相次いだ。永享五年九月に畠山満家、同十二月に斯波義淳、六年四月に一色持信、七年六月に三宝満済、七年七月山名常熙が没した。そうして将軍義教の強硬な態度を強く掣肘できる人材がなくなっていく。『この流れの先に義教の「恐怖の世」が到来するとみてよい。』(N1802あたり)
 石清水八幡宮の神前のくじびきによって、つまり神意によって選ばれた足利義教は『自分が政権を担ったのは、石清水八幡の神意によるものであり、自分は石清水八幡の神によって守られているのだという自意識を強くもったとしても不思議ではない。(中略)同八幡宮が義教の精神的支柱であった』(N2131あたり)
 足利義教は有力守護の家督問題などに盛んに介入。有力守護の勢力削減を狙っていた。しかし最終的にはそうした魔の手が自身の家にも及ぶことを恐れた赤松満祐(赤松家は複数の有力初家のいるかもんであるためその恐れは大きかった)が先手を打って将軍が謀殺される嘉吉の乱が起きる。
 義教の政治がいつから専制化へと向かっていったか、永享三年が大きな転換点。その年に信頼していた大内盛見の敗死、重臣たちが鎌倉との衝突を避けようとして将軍自身は篠側御所との関係上対面を避けたかったのに関東使節二会堂と対面させたことなどが起こって、将軍の発言力を強める必要があると感じたのではないか。彼の強権政治で永享六年六月十一日までに公卿59人・僧侶11人など80人が罪を得たり譴責された。彼の死亡時までには、おそらくその人数は倍になるだろうとのこと。
 多くの重臣たちの死後、永享七年以後に『義教が主導する幕府政治に直接的にもっとも関与できたのは管領細川持之および侍所赤松満祐であることは疑いをいれまい。』(N2701あたり)その時点でも赤松満祐はとても有力な重臣だったとは意外。
 京都においては鎌倉との対立に置いて緩衝材となっていた重臣たちがなくなり、鎌倉府でも幕府との協調を唱える関東管領上杉憲実の諫言を鎌倉公方持氏が聞かなくなっていた。そして永享の乱が起き、そして敗れた持氏は没することになる。
 嘉吉の乱が起こった直後、管領が旗を振っても大名たちは赤松討伐になかなか赴こうとしなかった。しかし軍功によって赤松家領土を切り取れることになったことで、赤松家討伐の軍が出発することになる。