ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち―天皇制度は存亡の危機だったのか?

内容(「BOOK」データベースより)

乱世といわれる時代であっても、当時の武家・寺院社会にとって、社会の秩序を維持する名分(根拠・立場)として朝廷は重要な役目を維持していた。室町幕府や天下人たちも、その機能を守るために積極的に行動していた。謎に包まれていた朝廷勢力の実像を13のテーマで解明。


 13人の歴史学者による、それぞれテーマが異なった13編の戦国時代の天皇や公家衆、あるいは戦国大名化した貴族について書かれている。
 応仁・文明の乱で公家が多く都から離れた結果、『即位式を行うための人材も払底していた。』(P16)そうした儀式も行えないほどに離れたか。他の金銭・物的困窮ばかりの印象が強くて、そうした儀式を執り行う人材については失念していたわ。
 亡くなった僧侶に与える『国師号では謝礼が五千疋(現在の約五百万円)程度、禅師号では五百疋(約五十万円)まで値下がりした。上人や香衣勅許では、引合(壇紙の一種)十帖プラス二百疋(約二十万円)または小高壇紙十帖プラス三百疋(約三十万円)くらいが相場であったといわれている。』(P35)そうした称号の手ごろな値段設定に、朝廷の困窮とその切実さがはっきりと見える。wikiを見ると一疋が10文、1000文で1貫(百疋)。そして中規模荘園の一年間分の総年貢が百貫文(P121より)くらいだそうで、それを見るとより値段の安さがわかる。
 戦国時代に公家が地方に下向して、大名とのかかわりを深めて経済支援を受けることがあった。しかし戦国時代にも天皇と公家の君臣関係は維持された。公家の家門(日記・記録・文書、家屋、寺院、道具など)の安堵は天皇によってなされていた。
 公家の家門の安堵は、室町幕府3代義満時代は義満によってなされたが、4代義持からは上皇が家門安堵をするようになり、それでも一部の将軍と関わり深い公家は将軍に家門安堵を申請した。しかし8代義政からはほぼ天皇に安堵親政をするようになる。
 戦国時代に下向した公家も家門の安堵を大名に申請するのではなく、天皇に家門相続の承認を求めたことからも君臣関係は維持されていたことがわかる。
 後宮女房は戦国時代は世襲化していて、伯母(叔母)から姪へという相伝がなされた。そして戦国時代の天皇家は正妻がいない(立后の儀式をするだけの金がない)ので、後宮女房たちが実質的なキサキとなった。それなのに後宮女房を世襲化してしまうと血が濃くなりすぎないかと思わなくもないが、そんな心配は今更といえば今更か。
 細川ガラシャキリスト教を教えたキリシタンの侍女いと(洗礼名マリア)は、『細川家に仕える以前は、伊予局として正親町天皇後宮女房として出仕していた(『言経卿記』天正十四年<一五八六>七月十四日条』(P82)。
 江戸初期『各地の東照宮には、「別当寺」という仏教の寺院が併設されたのである。これらの別当寺は、寛永寺の末寺となった。これをきっかけに全国の天台宗の寺院は、延暦寺から寛永寺の末寺へと変わっていった。』(P101)そして寛永寺輪王寺門跡(輪王寺日光東照宮の麓に建設されたが、輪王寺門主が在住するのは江戸)を置くことで、天台宗の門跡の最高権威も延暦寺にある門跡から、輪王寺の門跡へと移る。
 山科家は装束の家で、『言継の時代にも御服調製の家庭で、織ることは専門の織手が行うが、実際の染める・張る・縫う・仕立てるなどの皇帝は山科家で行っていた。』(P129)そして戦国時代、実際の裁縫の技術は家長の妻から代々の家長の妻へと伝授されていった。
 公家衆の家礼を持つのはおおむね摂関家だったが、三代義満の官位上昇で足利将軍家も公家衆の従者(家司、家礼)を持つようになる。そうした系譜の将軍家と主従関係を結んだ、将軍家と密接な関係を持つ公家衆を武家昵近公家衆(昵近衆)。そうした昵近衆は日野家、飛鳥井家、烏丸家などがある。彼らは公家衆であるから将軍家だけでなく、当然朝廷にも出仕し、天皇に奉公していた。
 『高倉・日野・広橋などの昵近衆は皆軍平を率いて、鎧直垂の姿で騎乗し、将軍の親政に従軍していた。このような従軍は、最後の将軍である足利義昭期(在職一五六八〜八八)まで継続していた(そのため討死する昵近衆もいた)。』(P150)昵近衆は武家同様の装束での軍事奉仕も必要とされた。また、彼らは将軍の没落にも従い奉公するものという認識があった。
 十二代足利義晴期以降は昵近衆は将軍に扈従するが、政務運営は武家の側近集団が集団になったこともあり、昵近衆は幕政の表舞台から姿を消す。
 秀吉が源氏でないから将軍になれなかったという話は、江戸時代の林羅山による創作で、実際は将軍を徳に望んでいたわけではない。
 徳川家康松平家、『「松平」は三河国松平郡(現在の愛知県豊田市松平町)を発祥の地とする在地領主で、古代豪族賀茂氏の血筋といわれる。』(P185)そして一般的に言われる源氏の(新田義重の四男の子孫という)伝承は、家康の祖父の代には成立していた。
 後陽成天皇が長男良仁親王でなく、三宮(後水尾天皇)を推したのは、三宮が久々の正配からの嫡子だった(長く正式なきさきを立てることができなかったので)からというのはなるほど。それならば納得できるが、その前に自分の息子である良仁親王でなく、弟で秀吉の養子からの出戻りである八条宮智仁親王に譲位しようとしたのは何故だろう、いまいちわからないな。
 『土佐一条氏が、土佐国幡多郡土豪たちの安全保障を担保する存在として成立した背景を有しているために、郡内の土豪全てを「家臣団」として掌握していたわけでなく、その独自性を承認しなければならなかった。』(P221)土佐一条氏は権威・調停役として期待されて、下向した経緯もあって強権な対応できなかった。
 奥州北畠氏の末とされる浪岡氏。正式な系譜ははっきりとしないが、公家の後裔としての権威によって存在した非軍事的な要素の強い領主。『事実、奥州における浪岡氏の身分は、他の地方領主と比較して、きわだって高いものであった。浪岡氏は、室町将軍家に最も近い一族である奥州斯波郡の斯波氏、その支流の奥州探題大崎氏と同じ「御所」号で呼称され』(P268)た。