中世ヨーロッパ農村の生活

中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

中世ヨーロッパ全人口の九割以上は農村に生きた。村で働き、結婚し、エールを飲み、あるいは罪を犯し、教会へ行き、子をなし、病気になり、死んでいった。舞台は十三世紀後半イングランドの農村、エルトン。飢饉や黒死病修道院解散や囲い込みに苦しみながら、村という共同体にあって、人々はいかに生き抜いたか。文字記録と考古学的発見から生き生きと描き出す。


 13世紀後半のエルトンという、英国・ウエストミッドランド地方の平均的な規模の村(人口5、600人)を舞台としてこの本は、様々な村の生活を細かく見ており、読んでいると血の通った人間や生活が見えてくる、そういうところがこの著者の本の魅力だ。
 たしか去年に、このくらいの時代を舞台にしたリアル系のファンタジー作品である「やる夫は青い血を引いていたようです」を読んでから、中世の日常についてより一層興味をひかれるようになったし、その時代の人間により共感を覚えられるようになった。「やる夫 青い血」は魔法などの超能力はなく、現実よりやや物資的には優しいが、それでも色々と世知辛いが、その世知辛さ(それを描いても全然殺伐としていないのは上手い)や領主と領民の関係についてリアリティを持って描かれているのでとても面白い。
 集落でなく村と呼べる条件は、一定の地域の土地利用を管理する組織があること、教会や城という共有の建物があること、長く使われる住居に定住し職人がいること。そうした永続性のある村が欧州に誕生したのは10世紀だというのは思ったよりも遅くかった。やっぱり農村というのは古い原風景的なものという思い込みがあるから、ちょっと驚くよ。
 ロングハウス(バイヤーハウス)、片側に家畜をいれ、反対側に人間が住み、汚物をためる溝で両者を仕切るって汚物の溝がどういうものだか分からないが不衛生って言う概念が無いから仕方ないが、不衛生だな。しかし「出稼石工の回想」でナドが祖父だかの時代まで家畜とひとつの屋根の下で云々といっていたが、それってこのタイプの家のことなのかな。そういう家は中世初期まではヨーロッパでよく見かけたタイプということだから、ナドの祖父ってことは18世紀半ばから後半ってところだろうから、そんな時期までそういう住居で暮らしていたということで、彼の出身地が遅れた地域だったということについて、今回そうした情報を知ってようやく実感できた。
 当時の農村での生活は現在から見ると魅力的なものではないが、それまでの時代から考えると活気がある社会で、社会・経済の点で重要な変化が起こっていた。たとえば当時は俗人に読み書きができる人が増えてきたということもあり、王の周りだけでなく領主の周りにも官僚社会が形成されてきた。
 この当時の領主の下の執事(家令)の地位が上がり、各地の荘園(村一つだったり、村の一部だったりと色々)で領主代理として、領主の持つすべての荘園の監督をしていた。そのため定期的に現地を巡回してこの仕事をこなすので荘園に姿を見せるのは年に1、2度だった。その執事から任命されたのが荘園差配人(ジェントリの次男以下か、裕福な農民の家族が勤めることが多い)であり、彼がほとんど一年を通して荘園内で執事の代理を務めていた。しかし荘園には様々な役職があったというのはちょっと吃驚した。またそうした役職の中にどの村にもあるエール検査官という役職があり、その役職は村の様々なポストのうち唯一女性が就けたということやエール醸造をしていた人のほとんどが女性だったというのも驚き。粉引きやパン作りが領主の独占分野だったのに対して、エール醸造は誰でも参加でき、少ない道具で商売ができるため貧しい女性でもエール醸造をして居酒屋の仕事をすることが多かった。ただしエールが薄かったりすると領主に罰金を取られたようだ。
 1279〜1346年の間の記録には名字から200を超える家族が登場するが、その中でその期間中に村の役職についているのは49家族で、その中でも8家族から各4名以上のメンバーが101の役職につき、その下の14家族から各2名以上のメンバーが39の役職につき、更にしたの27家族から各1人のメンバーが総計41の役職についている。そんなことからも村の中は同じくらいの経済水準で単色でべたりと同じように塗られているわけではなく、名主みたいな村の中で有力な家も存在した。ただ、そうした有力な家の人たちは喧嘩や訴訟、違反行為、暴力行為などで法定記録の中でも目立つ人だったというのはちょっと面白いな。
 12世紀には名字を持つ人は稀だったが、13世紀後半になると名字を持っている人が増えた。「チャップマン」は昔の英語で商人を意味し、そのラテン名が「メルカートル」というのはちょっと吃驚。探偵のメルカトルの元の意味って、そんなんだったのか!しかし見たことのある名前でもカーター(荷車の御者)、ミラー(粉屋)、バクスター(パン屋)とかなり職業由来のものが多いな
 組み立て式のテーブルで長いすか背もたれのない椅子に座って食事を取った。テーブルというのは同じ場所にずっとおいておく物というイメージが強固だったから、都市のような狭小な住環境で我慢しなければならないところならばともかく、村でもそうした組み立て式を使っていたとはなあ。
 14世紀になると遺言作成が広まり、15世紀になると農民が遺言を残すのは一般的になっていたとは意外な事実だ。
 土地を生前に譲渡するのに、息子と契約して、その代わり一定の穀物を死ぬまで毎年贈ることなどの取り決めをした。もっと細かいものだと土地を譲渡した息子に、隠居する夫妻(親)にふさわしい飲食物を提供し、不和が生じて同居できなくなったらと落ち着いて済める家と囲い地、毎年一定量穀物を提供する義務を負わせる契約を締結することがあったというのは「訳者あとがき」にも書いてあるが非常に現代的だ。
 酒に酔って井戸や池に落ちて死んだり、飲酒により暴力沙汰を起こしたり、夫婦喧嘩の仲裁に入ろうとした男が死んだりと血なまぐさいエピソードも多数書かれてあるけど、逆にそうしたことが書かれていることが人間臭く感じるし、身近に感じられる。無論実際にそういう人がいたら嫌だけどさ、そうした「人間ドラマ」の1シーンが書かれていることで立体感がでて、その時代の人たちについての理解がより深まったような気分になるし、面白い。
 『二圃式と三圃式の違いは、実はそれほど大きなものではない。三圃式農業では、第一の土地を休閑地として休ませ、第二の土地には秋から冬に小麦やその他の穀物を植え、第三の土地には張るには大麦、オート麦、インゲン豆やエンドウマメ、その他の春播き作物を植える。翌年にはこの割り当てを交代させた。
 二圃式農業においては、土地を二つに分け、一つを休閑地とし、残りをまた二つに分けてその一つには秋播きの作物、もう一つには春播きの作物を植える。つまり、二圃式農業とは「休閑地の割合が多い三圃式農業」』(P191)なんで両者を分けているのか分からなくなるほどの違いしか両者の中にはないというのはちょっと驚き。
 教区司祭はラテン語の素養がなく、聖書や儀式について無知であると司教たちには嘆かれていたようだが、1301年に教区を視察して回っていたエクセター地方司教代理は『地域を問わず、教区の信者は自分たちの司祭や説教し、教師たちにおおむね満足していることを確認している』というのは、そうした当時のアンケート調査みたいな内容の結果が記録されているということを含めて面白い。
 年に二回村人たちは領主の執事が主催する荘園裁判所の一環所として開かれた法廷に出席した。しかし裁判集会を実際に動かしていたのは村人で『慣習法を持ち出すのも、証人を勤めるのも、判事の役割を果たすのも、村人だった。法廷に持ち込まれる案件のほとんどは領主とは関係なく、村人同士の問題だった。そのうえ、裁判集会は領主の思うままにはできず、「荘園の習慣」という古くからの、強力な伝統にのっとって進められていた。』(P252)。そんな村人たちの争いについての裁判に、執事が出席したのは陪審団が出した結論に権威をもたせるためであり、そこで加害者に課された罰金を徴収するためであった。そうした裁判の記録は執事の書記官によって付けられ『13世紀後半には、法廷記録は大事に保管され、過去の判例がしばしば参照されるようになった。』(P256)
讒言で名誉毀損したり、穀物の貸し借りでトラブルであったり、質の悪いエールの販売、暴行、賦役をサボったなど非常に身近な話題でのトラブルが一々記録に残っているのは面白いし、そうした事例を幾つも見ていると非常にこの村の住人を身近なものとしてイメージしやすいな。しかし領主に対する罰金と相手に与えた損害について同時に裁定しているのね。
 決闘裁判や神明裁判も既にこの時代には廃れていた。そして国王裁判所という国家の裁判所でも、被告人が拘留された状態で審理が行われた場合の有罪率が10〜30%という低さなのは、現在日本のように捕まえたから何が何でも有罪にしようとするのとは違うから、その点はとても素晴らしいと思う。そして拷問は稀で、手足の切断といった刑罰は既に行われなくなっていた。ただし、泥棒の片耳や親指を切り落としたり、強姦犯を去勢したり、残虐な暴行を働いたものの目を潰すといった刑罰は生きていた。