連合赤軍物語 紅炎

連合赤軍物語 紅炎 (プロミネンス) (徳間文庫)

連合赤軍物語 紅炎 (プロミネンス) (徳間文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「革命」という言葉が日本で現実感があった1960年代後半、全国各地で革命運動に燃えた多くの若者たちがいた。やがてキューバ革命にシンパシーを感じていた「赤軍派」と毛沢東に強く影響を受けた「革命左派」が接近、「連合赤軍」を結成。波瀾の運命へと突き進んでいく。アウトローノンフィクションに定評のある著者が描く渾身の青春群像巨篇。


 連合赤軍になる前の関西ブントから分派して赤軍派になる流れと、日本共産党革命左派神奈川県委員会から革命左派になる流れという前史がかなりの分量が描かれた。というかその前史があって、互いに武装闘争路線をとり実際に行動をしていたことに共感して連合することを決めた2つの団体の性格の違いとヘゲモニー(主導権)争いからリンチ殺人という悲劇が始まったということがよくわかる。
 冒頭は仲間内での隣地というものに耐え切れなくなり逃亡した前澤という人の視点で、あさま山荘事件が起こった当時のことが書かれている。その銃撃戦が実際に起こったと知り、驚きと少しの感動を抱き、実際に行動するのなら自分も残ってそこで死にたかったと真っ先に思ったが、人質をとっていることや籠城しているという情報を知ると、それはないだろうという思いに変じた。
 銃撃戦が始まる直前に、買出しに出かけて捕まった植垣という人は銃撃戦を知って羨ましく思い、そこに自分がいなかったことは『不本意な仲間殺しまでして……彼らに面目も立たない。残念無念でした。』(P16)といって、自分が爆弾を作った人間だから自分があそこにいれば戦い方も変わっていた、それに仲間殺しの責任は銃撃戦で、自分たちの死で、決着をつけるしかないと思っていたのでその場に立てず、生きて捕まったことを無念に感じているようだ。しかし彼の言葉を聞いていると、自分たちが闘争の中で死ねなかったものを悔いて、それでこそ大罪(仲間殺し)のせめてもの罪滅ぼしになると考えているようではあるのだが、獄中で過ごした27年間の後の言葉ということで時間の経過のせいということもあるのだろうが、妙にあっけらかんとしているように見えるのが不気味だ。
 リンチを実行してしまい、最後の銃撃まで行き着けなかったこの2人のどちらもあさま山荘にいた人らは死ぬべきだった、やりきるべきだったという思いがあったようだ。
 獄中の赤軍派イスラエルの空港でのテロ行為で多くの人間を殺した重信房子あさま山荘で銃撃が起こったことに対して喜びを感じて高揚していたが、大量リンチ粛清事件を知ったことで、彼ら(新左翼陣営)の活動・精神は大きなショックを受けた。
 赤軍派議長で、連合赤軍になったときやあさま山荘時は獄中にいた塩見は、デモで警察などを嘲弄することに無類の面白さを覚えたことから、運動の面白さを知った。彼は最初肉体派として運動に携わるようになり、後に理論派になった。彼は映画を見て興奮してスクリーンに向かい大声を上げたり、部屋には枕もないからレーニン全集を枕にしていたなど、憎めない奇人といった感じだ。しかし山岳ベースキャンプ事件ではそんな塩見の文章に出てくる「共産主義化」というワードを森が利用して、同士殺しのリンチの思想的根拠に使用して悲劇が生まれた……。
 塩見は荒の守衛のバイト先にまで押しかけて、自分のところ(関西ブント)に入るようオルグしているが、荒はそんな塩見を一応立てているということと塩見のそうした奇人っぷりのおかげでその強引さに不快に感じるよりも先に面白いなと感じてしまった。まあ、旗から見ている分にはという話で実際にやられたらたまったものではないが。
 塩見は関西ブントの勢力圏外の大学にいる荒をオルグしてブントにいれたことで、他党派にリンチされ、彼がリンチされたことで、押し切られて入った荒はかえって意地になった。
 後にブントから赤軍派に参加した田宮は肉体労働者のおっさんという風体をしていた、庶民派で気取らない男と書かれているけど、「庶民派を」気取っていたんじゃないかなと思うわ。
 当時仁侠映画が好まれ、それで若者の高倉健への人気が高かった。高倉健ってどんなスターだったのかがいまいち掴めなかったが、こういうところで人気があったのか。こういう作品に出たから人気があったのかそれ以前から既に人気があったのかは知らないけど。
 塩見、新宿騒乱事件で火炎瓶という明確な路線があったのに貫けなかったことを後になっても残念という思いがあったというのを見ると相当な危険人物だな。現在の視点から当時彼らが革命をしてもどうにもならなかったし、少なくとも現在までの共産主義体制がろくなものとならなかったからこれらの闘争は無意味だというつもりは、過激であるが少なくとも一面では下層の労働者の味方でもあったわけだから、まるでない。むしろ最近の中流が減り二極化してきている流れがあるから、ここの当時の過激で極端な行動にでている左翼の運動家に対して、それなりの共感や尊敬を抱いてしまう。以前はこの時代の左翼は無条件で嫌いだったけど、最近は極端な形で抗議しなければ黙殺され現実になんら影響を与えないと思うようになったから、この時代の左派陣営には掲げる理想に共感できなくとも、その行動にはそれなりに共感できるようになってきた。
 新宿騒乱での火炎瓶闘争が否定されたことや、東大闘争で革マルが立て籠もるのをやめることを契機に彼らも幹部から東大から逃げるようにと指示を受けた(がそれに反発して指示に従わず東大に残った)ということもあり、ブント内には大きな亀裂ができた。そうした路線対立の結果ブント内に赤軍派が誕生した。しかし東大闘争は運動をしている団体間のあいだでも、バリケード封鎖を解除するしないでゲバルト合戦があったというのをみるとなかなか複雑怪奇な様相を呈していたのだな。積んでいる「東大と天皇」でも読もうかな。
 赤軍派の掲げる「軍事」や「武装」が観念的な流行になっていた時期で、たとえそれらの言葉が非現実的であっても、『赤軍派の言葉は非常に明快で、学生にも受け入れられやすかった』(P111)。そのためブントの赤軍派以外の人、つまり赤軍派と対立している派閥の人でも軍事や武装の方針を求めるようになり、それに変わるものを見出さない限り対抗できないと、ブントの中枢の面々もそう感じるようになった。
 赤軍派の結成大会では、アメリカの過激派「ブラック・パンサー」をまねて、登壇する者は顔に黒いストッキングをつけていたというのは顔をわかりにくくするという意味があるのはわかるが、それにしたってシュールだな。
 革命左派(日本共産党革命左派神奈川県委員会)の下部組織の人たちが、米国やソ連の大使館に火炎瓶を投げ込んだりしていたというのは、戦後の共産党という議会で議席を得ている組織の、分派のといっても、下部組織がそんな過激で不法な行動をしているという事実に驚く。
 赤軍派首相官邸襲撃計画において赤軍派は中核の中央軍を編成すると同時に5カ条からなる赤軍心得を出してその中に「一、人民の財産は、針、糸一本も盗んではならない」(P170)とあるのに、その次のページでしれっと猟師の人のトラックを盗んでいるのは、つっこみを地の文で入れていないことも含めて笑う。
 首相官邸襲撃する前の軍事訓練に大菩薩峠に行ったところを逮捕されたが、それらの計画は警察当局に筒抜けだった、というよりも堂々と大学や喫茶店でその計画を吹く「幹部」がいるなど、言動も行動しようとしていることは過激だが警戒心が足りないというか、過激に大風呂敷を広げているのだが綿密さに欠けている、そうした抜けているところや楽観的に考えるところが過激派であってもどこか憎めない。この段階では、だが。
 大菩薩峠で多くの人員を逮捕されて勢力が弱まったところで「よど号ハイジャック事件」を起こしたが、キューバを国際本拠地にしてそこから日本に支援を行うと云う国際根拠地論を塩見が打ち出していたが、それでキューバを国際本拠地にしようと思ってそのことをキューバの若い役人に話したら彼から冗談で中米の革命家のようにハイジャックでキューバに来たらどうか、といわれたことを真に受けたことが始まりだった。ただ、キューバは日本からは遠く2、3回は給油しなければならないため、現実的でなく中国にいくにしても最近は追い返すということで一旦北朝鮮に行ってそこからキューバに行こうと考えていたが、現実的に考えているというよりも非常に楽天的に考えてとりあえずやってみようという形で実行して、運良くというか運悪くというか、実際にできてしまった。しかし彼らは「北朝鮮スターリン主義の自主独立派の国」と見て評価していなかったというのは意外だ。赤軍派はこの作戦をするまで大きな計画を立てているが、その作戦はいまいち成功していなかった。塩見はハイジャック事件前に逮捕され、その後も彼のノートにあったH・Jがなにを意味するかは、当時ハイジャックの用語が一般的でなかったことから警察には分からなかった。そして、その後事件が起きたことで塩見はハイジャックの共同正犯を課される結果となった。彼らの中では長く日本から離れるつもりはなかったが、結局何十年も北朝鮮に。
 東大闘争のころまでは学生運動新左翼運動は、運動している側も機動隊員も互いになるべく死者を出さないように注意していたが、その1年後にはブントから分かれた赤軍派という超過激なセクトができたということもあり新左翼運動の性格がすっかり変わっていた。
 重信房子の父は昭和維新運動に関わり、自分も血盟団に加わろうとしたが井上日召に諭されて田舎に帰ったという経歴の人で、「テルアビブ空港乱射事件」を起こした娘も彼から「金銭を価値の基準に置くな。人間を貧富で判断するな。だが、貴賎はある。人間の価値はいかに自分の良心に恥じないように生きるかで決まる。」といわれて育った。彼は事件が起こっても彼女の行動を恥じなかった、父は娘の、共産主義の、思想に共鳴していたかはともかくその事件が弱者のためにしたというのは信じていたのか。しかしそんな父親がいたとなると重信房子のことは他の活動家と違い、非道なことをしているのだが、単純に嫌いとは言えなくなったな。もちろん彼女は無辜の民を殺戮するということで決定的に誤った方法を取っているけど。
 しかしよど号ハイジャック事件の成功によって世間の赤軍は人気が高まって、にわか赤軍ファンやシンパがでてきたとは、それは大きな犯罪だと云う認識しかなかったので驚く。他のセクトからはその行動に意味があるのかについては(当然のことながら)疑問視されながらも、彼らが基本的には大きなことを(権力を出し抜いて)やったということについては概ね何かしらスカッとした気分になったようだ。
 革左では実際に身内の人間を粛清し始める前に、(甚だ怪しい)権力のスパイの嫌疑がある女性にかけられて、あっという間に処刑することが決まってしまった。実際には死体を処分する場所がなかったということで実行されなかったが、このメンバーの処刑を公認したという事実は、後の連合赤軍決闘前の革左内の2名の処刑や、連合赤軍リンチ事件の下地となった。
 革命左派が銃砲店を襲撃して銃を取ったときに警察は4万5千人と全国の警官25万の5分の一弱を総動員して一斉捜索したとは大事だな。まあ、過激派が銃をもっているのだから、そのくらいやってもらわないと困るけど。
 当時革命左派のトップだった永田は中国に逃げると云う方針を出してそれを撤回したり、なぜ山岳ベースなのかというのが問題となっているときに、幹部の痴漢云々という問題を作り上げ(実際は以前に前澤とメンバーのある女性が互いに合意の上でそうした関係になる前に中途半端で終わったというだけのこと)、それを糾弾して、それに対して色々と悶着を起こすことで肝心の問題をぼかしてしまった。この問題は単体ならさして重要とは言えないが、後にそうした小さな問題を大きな問題に仕立て上げる彼女の才覚がリンチ事件の最中に存分に発揮したことが惨劇の要因の一つとなった。
 赤軍派森恒夫は革命左派の永田に、離脱者やスパイを処刑すべきか迷っていると相談されたときに同じ問題が自分たちにも起こっているが「われわれ殺ることにした。殺るべきだ」と答えた。しかし実際には赤軍は現場がその決定を覆して、処刑を行わないことにして森もその決定を容れた。一方で革命左派は(以前に実行はしなかったが仲間の処刑の決定をあっさりしてハードルが下がっていたということもあり)実際に処刑をした。そのことを森が知ると『「もはやあいつらは革命家じゃないよ!」と嘆声を発した』(P298)が、これには両派の気質の違いがあらわれていて、革命左派は「一旦口にしたことは必ず実行しなければならない」という気質なのに対して、赤軍派は「良くいえばおおらか、悪くいえばいい加減」な気質だった。この件があったのは、赤軍と革左は連合を組もうとしている前で自分たちが主導権を握ろうという目論見があったので処刑によって彼が感じた衝撃はおくびに出さなかったが、その処刑の断行は森に革左へのコンプレックスを植え付けた。そのコンプレックスが後に連合赤軍リンチ事件のような過激な粛清劇に結びついた。
 おそらく森は、赤軍は仲間内にも厳しく、処刑すらも厭わない団体だという印象を革左に植え付けてすごいと思わせて、連合したあとも自分たちが優位になるようにそんなことを言ったのだろうけど、実際に彼らが処刑を断行したことで動揺したと同時にコンプレックスを負った。それと同時に赤軍は革命左派に政治的な負い目となっていたので、そのことが森に過激な言動と過激な行動に走らせることとなった。
 森は赤軍派の幹部たちの逮捕が相次いだことで赤軍派の最高指導者となったが、しかし古参幹部との対立や確執もあり古参幹部が赤軍派から離れていった。そうしたことや森のわからないことをわかったように振る舞うということはトップとして弱みを見せられないという意識もあったのだろうが、それも悲劇の一要因として考えられるだろう。
 しかし連合赤軍リンチ事件でリンチを主導した森も色々な欠点はあるけど、致命的な欠点というか良くも悪くもそれほど飛びぬけて特徴的な部分がなく、人物的にも大物でもなくむしろこういう人は普通にいると思えるような人だ。ただ彼は演説が上手かったようで、そのことがリンチ殺人を促した一因ともなったのであろう。
 他の団体が難しい言葉を使い理論が選考して行動に移すことは少ない中で、革命左派は難しい言葉を使わずに言ったことは必ず行動に移すという特徴があった。そうしたことを見ると革命左派に惹かれるのは無理もないなあ。
 過激な行動を起こして入るが当時の運動家の多くと同じく大言壮語という習癖のある、よくもわるくも粗放な赤軍派と、そのように有言実行というカラーを持つ革命左派が連合を組んで、その中でヘゲモニー(主導権)争いをして、互いに見栄を張ったり些細な点を問題にしたりしたなかで、仲間や連合相手に見栄を張って極端な行動をとったことによって生まれた惨劇だと強く感じる。
 しかしその処刑の2週間ほど後に十代の少年少女を含む何人かのメンバーが丹沢ベースにやってきたときに、その処刑を実行した山岳ベースの革左の面々が新たに来た山岳ベースに来たメンバーをフレンドリーに迎え入れられて、アットホームな雰囲気だったというのはゾッとする。
 初めて合同で共に山岳ベースでキャンプをする際に、まず赤軍派は登山の際に革命左派のメンバーが水筒を持ってこなかったことを批判し、それに反発して今度は革命左派が遠山が指輪をしていることを批判した。しかしヘゲモニー争いのためにそうした些細なことを問題視して、批判を繰り返したことが同士殺し虐殺に発展することとなる。
 加藤3兄弟の長兄は合法部の意見を山中の指導部に対して、合法部・獄中のメンバーを敵視するかのような態度を改めるよう要求した意見書を読みあげた。しかしそれは連合を組んで一体感に浸っている山岳ベースのメンバーにとって気に障ることであったので、彼は連合赤軍リンチ事件の最初リンチの対象となってしまった。
 そんな彼を弟たちにまで殴らせるという残虐さには血が凍る思いがする。そして100発殴られても一切倒れなかった加藤能敬の精神力の強さはすごさを感じるがそれ以上に彼のその精神力の強さにはかえって痛ましさを覚えてしまう。そして扇動した森や永田だけでなく、唯々諾々と従って暴力を振るった他の者たちのあまりにもグロテスクさにも息を呑み、目を背けたくなってしまう
 「気絶からさめたら別の人間になる」という屁理屈を用いて暴力を振るったようだが、そのような理屈はオウムの逆さづりにして「反省」させていたということを想起させ、連合赤軍はそうした意味でもカルトだという思いを強くする。ただ、オウムでもそうしたことをした人間を確実に殺すことまではしなかったいうことを考えるとより過激でおぞましい。
 ただ、初めて暴力を振るった仲間が死んだきにリンチを主導した指導部連中がショックを受けているのは、彼らのあまりの想像力のなさに呆然としてしまう。そして2人目が死んだときにはもう1人目のときのような動揺が見られなかったことにも。そして2人目に死んだ進藤の「こんなものが総括なのか!何のためにこんなことをされるのかわからない!革命戦士になるためになんでこんなことが必要なのか!」という叫びには胸が痛む。そして段階が進んで7人目の寺岡殺しの際にはナイフやアイスピックで滅多刺しにした上にまだ息があるからと4人がかりで首を絞めるという地獄めいた光景が展開された。その集団狂気には戦慄してしまう。
 妊婦で森たちにも抗議することも恐れなかった金子へのリンチの際の、永田の「私がいるから、あんたは女ボスになろうとしてもなれないのよ」という場違いとも思える発言にはゾッとしてしまう。
 森と永田が逮捕されたことで幸運にも「残った」メンバーの誰もが覆っていたものが除かれたような明るい気分となって、これでやり直せるというふうにさえ思ったというのは仲間殺し、人殺しをしてそんな風に思う身勝手さも感じるが、それは一時的な躁状態ともいえる精神状態だからこそ感じたことだろうから哀れと感じるほうがずっと強い。
 あさま山荘事件は森と永田というトップ2人が山へ帰ってくる途中で逮捕されて、残ったメンバーが警察があまりの険しさにそこをいくとは想像だにしなかったようなルートをたどって冬山を逃げたが、逃げた先で買い物に行った2人のメンバーが逮捕された。そのことで警察は彼らがそこにいることを察知して包囲したので、彼らは仕方なくあさま山荘に籠もったという非計画的なものだったというのは知らなかった。ただ、人質をとっての籠城戦には残ったメンバー内でも疑問に思う人も多く、同士殺しには自分たちの闘争による死によってしか贖えないという思いも多分にあったようで、そのまま機動隊を突破しようという気分の方が強かったようだ。
 あさま山荘にこもっている間しばらくは電気がついていたが、ニクソン訪中のニュースを知って連合赤軍の面々も意気消沈した。どうやら警察は彼らにそれを見させようとその時まで電気を通じたままにしてあったようだ。そしてその作戦は効果的だったようだ。
 解説での中上健次が言った「いまから振り返ってみれば、左翼の運動だといわれてたものが全部右翼に見える」というのは極論ではあるが、解説者のその発言についての理解を見るとわからなくもない。個人的に最近新左翼の運動については、弱者のための運動という一面もあったし社会変革を暴力を用いても成し遂げようとしたということにはある程度評価できるようになってきたが、だからといって彼らの活動が愛国的なものだったとは(僕の浅薄な理解だからそう思うのかもしれないけど)とても思えないのだが。