円仁 唐代中国への旅

円仁 唐代中国への旅 (講談社学術文庫)

円仁 唐代中国への旅 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

慈覚大師円仁の著わした『入唐求法巡礼行記』は、日本最古の旅日記で、世界三大旅行記の一つともされる。五台山への巡礼、長安資聖寺での生活、廃仏毀釈の法難。九年半にわたる円仁のさすらいと冒険の旅の記録は、唐代動乱の政治や庶民の生活を克明正確に描写する。本書は、この旅行記の魅力と歴史的価値を存分に論じるライシャワー博士畢生の研究の精華である。

 冒頭の図版のキャプションに「円仁自刻の聖観音立像」とあり、それが普通に上手な仏像だから驚いた。絵なら、まあ、わかる気もするけど彫刻が出来るとは随分と器用なんだなあ。
 冒頭に円仁は『日本史上最初の”大師”号を授けられた』(P10)空海最澄よりも先に、それどころか誰よりも先にそうした号が授けられたというのは驚いた。というか、その号自体が円仁の没後、彼の功に報いるために新たに加えられた特別な位なのか、そうするとそれ以前の人が贈られておらず、最初にその号を受けたのは当然だ。しかし円仁一人の功の大きさによって、それまでの最高の称号じゃ足りないと思われて、新しい位を付け加えられるということからその偉大さがわかる。
 円仁の人柄『円仁の人となりの描写は、なんとしても陰を持った不完全な形とならざるを得ないが、きわめて稀な精力と知性と性格の調和を持ったすぐれた人物であり、聖者のように、果敢な行動にみられる際立った能力の持ち主であり、強い不動の信仰を持って貫かれているのである。彼は一件知性の新しいひらめきを見せる独創的な想像力の人ではないが、自らの決定の力と人を鼓舞してやまない彼の性格によって、彼の先輩たちが発見した新しい領域を開拓する地味なしかし困難な仕事に多くの人々を導くことが出来たのである。』(P87)宗教心に厚く、敬虔な善人、そして優秀で時代的にも大きな存在だし、その後も称えられるような大きな人物。宗教者の人となりについての話を聞いたことはあまりないが、円仁の人格について書かれているこの文章を見て真っ先に「宣教師ニコライとその時代」を読んだということもあって、ニコライを思い浮かべた。彼らのような、そうした人格の優秀な宗教者というのは、宗教者の一類型として宗教問わずにあるものなんだなと思うと少し感慨深かった。
 円仁が唐に居たときの宗教弾圧は「中国史上最大」のものだったというのは知らなかった。また円仁が滞在していた期間は、唐王朝は凋落の時代にあったが、それでも色々と些細なことまで細かく公文書でのやりとりがなされ、民間のことまでかなり行政府が把握していたことには驚く。外国人の把握というところを見ると、日本だったら江戸時代までこんな緻密さはないんでなかろうかと思う。
 円仁のライバルだった円珍も、中国における滞在記「行歴抄」を書いたが、それは断片しか残っていないというのは残念だ。2人の関係的にも両方残っていたほうが面白そうだし、また円珍がその日記で円仁やその同行者のその後の行動についての情報もあったようなので、そうしたものが完全に残っていたら円仁のその後の話ももっと充実した(神格化されたのではない人間円仁としての)エピソードが見られたであろうと思うと残念だな。
 しかし円仁の日記は全て中国滞在時に書かれたものと思っていたが、実際は帰国後にある程度書き改められ(円仁は中国滞在初期は会話が駄目だったのに、全体的に文語体と口語体の混合は日記を通じてほぼ一貫しているため)、また「長い伝承の間の誤りのために本文に多くの誤りが紛れ込んだ」だろうということなのは少し残念だが、新たにエピソードを挿入したとかそういうわけではないようだから、大きくその価値を毀損するわけではなさそうなので良かった。
 そして当時の日本の船の外洋航海技術のお粗末さは、周りが海で囲まれているのに何でだろうと自国のことだが思わず首を傾げてしまう。当時は朝鮮人たちが活発に船で商売していて、円仁たちも帰国時に彼らの助けを借りている。新羅は中国と活発な交流があったようだが、当時も日本は朝鮮(新羅)と仲が悪く国交がろくにないので当然行き来も活発でなく、当時の東日本にも大きな都市はないから船で頻繁に行くようなこともなかったであろうし、発達している西日本は穏やかな瀬戸内海で行けたから技術が発達していなかったのかなあ。
 そしてこの当時の(も?)中国に多くの朝鮮人が在住しており、円仁は彼らによる助けを大いに受けたようだ。
 遣唐使で嵐で台湾の近くかより南の島に流されて、そこで現地人に襲われて戦ったりしながらも、破損した船の材料でいくつかの小さなボートを作り、それに分乗して日本に帰ってきたという菅原梶成らのエピソードはなかなかに壮絶だな。
 円仁は一日平均20マイルちょっと(32キロ+)、そして多いときには30マイルと少し(48キロ+)を歩いたが、それは『四十代の学僧としては決して過重な徒歩ではなかったろう。』(P225)こうしたさらっとした冗談は好きだなあ(笑)。
 『唐代中国の官用旅行者は、正式な通行所を持っていれば、道中無料で糧食、宿泊、運搬の便を支給されることが期待できた』(P232)そして円仁もその支給での恩恵を大いに受けていた。
 そして円仁が五台山にいたときに義円という僧が、円仁と一緒にいるときに輝く雲や暗闇に二つの輝くものという奇跡を見たので(それも今まで望んで、見れなかったのに2度も!)、非常に円仁をもてなしたというエピソードはなんかいいね。まあ、円仁としてもそれらは本人が書いている数少ない奇跡のエピソードなのだが(笑)。
 円仁は日本から持ってきたり送られてきたりしたお金では、後に持ち帰る経典や宗教画を買うのには足りないから、そうしたものを手に入れるための資金などについては「信仰厚い在俗の人たちの個人的な援助や彼の多くの中国人パトロンたちからの贈り物」に頼っていたということで、円仁は(当時の留学僧は?)中国社会にもそうした繋がりを得ていたとは驚いた。まあ、彼の人柄ならそうしたパトロンがつくというのも分かる気がするが。
 当時は中国でも宗派の別がもっとも強かった時期だが、それでも宗派は日本や西欧におけるような意味ではなかったとあるけど、日本でも当時そこまで強かったのは円仁が所属する天台くらいかと思うが(笑)。あと当時の真言は詳しくないから知らないけど、もしかしたら真言も入るかもしれない。だけど基本的には当時は南都六宗のように、基本的には同じ団体で六宗が学べるみたいな感じで、宗派の対立もなく行き来も自由でしょう。宗教史に詳しくないから間違っていたら謝るけど。
 中国史上最大の仏教大弾圧があったが、それは外国宗教は遺跡という色合いも含んでおり、その弾圧の期間は道教の影響力が強まったようだが、一般官僚にとっては仏教よりも良いものとは決してなかったようだ。